「三薙、明日もお休みなの?テストへーき?」 明日は学校が休みだと告げると佐藤が心配そうに首を傾げる。 それは確かに由々しき問題だ。 けれど仕事は何を置いても最優先される。 「う。なんとか、するしかないな」 「じゃあ、私ノート取っておいてあげる!」 「ありがとう」 「この前借りたしね!」 佐藤がにこにことしながら提案してくれる。 こんな風にノートの貸し借りするってのも、1年前まで考えられなかった。 他の人間にはきっと普通のことなんだろうけど、いまだにこそばゆくなる。 「千津のノートじゃ危険だなあ。なぜか日本史なのに化学式書いてあったりするからなあ」 「起きたら気が付いたら化学になってたんだよね」 「不思議だねえ」 槇がくすくすと笑いながら、怖い暴露をしてくれる。 ノートは嬉しいけれど、正確さが危ぶまれるな。 「………藤吉、槇、ノート貸して」 「いいよ」 「おっけー」 藤吉と槇は即座に了承してくれた。 藤吉も槇も成績はいい方だから、とても安心だ。 特に槇のノートはとても綺麗な気がする。 「三薙ひどい!」 けれど佐藤が俺の背中に張り付いて抗議してくる。 ああ、相変わらずスキンシップ激しくて心臓に悪い。 柔らかい。 いい匂いがする。 って、そうじゃなくて。 「ご、ごめん!」 「もう絶対ノート貸さないからね!」 「嘘嘘!貸してください!」 慌てて頭を下げると、皆が楽しそうに笑う。 それから頬を膨らませていた佐藤だけれど、しばらくして仕方ないから許しあげるといって許してくれた。 槇がおっとりと一人不機嫌そうな岡野に視線を送る。 「彩のノートも見やすいよ。色が少なくてシンプルだけどね」 「チエのノートがカラフルすぎるんだよ」 岡野とは、昨日の一件から、なんだか顔を合わせられない。 うまく話せない。 岡野の顔を見ると、柔らかさとかいい匂いとかなんかそういうものを思い出してしまう。 後、岡野の初めて見た頼りない表情、とか。 昨日の夜も思い出してしまって、中々寝つけなかった。 「三薙?どうかした?」 「あ、ううん」 俺は慌てて首を横にふって想像を追い払う。 今日のところはまともに岡野と話せそうもないので、さっさと帰ることにする。 やることもあるし。 「それじゃあ、準備があるから、今日は帰るな」 「うん。帰ってきてテスト終わったら遊びに行こうね」 「あ、さんせー、いこいこ!」 「気をつけてな」 岡野はつまらなそうな顔で、ただ俺を見ていた。 今日はずっとそんな感じだ。 岡野も話しかけてこない。 その表情の裏を考えて、落ち着かなくなる。 もしかして、怒ってるのかな。 それとも俺みたいに照れ隠し、とか。 だったらいいな。 でもやっぱり怒ってるのかな。 ああ、もう、落ち着かない。 「ありがと、じゃあな!」 とりあえず、仕事に集中しよう。 そうしたら週明けにはきっともっと落ち着いて対応できるだろう。 ひとまず問題を先送りにすることにして、教室から出ようとする。 そこで長身の誰かとぶつかりそうになる。 「あ、ごめん!………阿部」 「………」 阿部は俺を汚いものでも見るように顔を顰めて睨みつけ、さっさと教室に入ってしまう。 いまだに話すことは、出来ない。 当然の、ことなんだけれど。 「………」 口に溢れる苦いものを飲みこんで、俺は廊下に出る。 忘れてはいけない。 けれど、囚われてはいけない。 「宮守」 下駄箱まで来たところで、後ろからハスキーな声が俺を呼びとめる。 その声に、心臓が大きく跳ね上がった。 「あ、お、岡野」 振り返ると岡野はむすっとした顔で、俺をじっと見ていた。 なんだろう、不機嫌そうだ。 やっぱり怒ってるのかな。 わざわざ追いかけてきて、殴るとか。 それだったら、嫌だな。 「え、っと、な、何?」 「………気をつけろよ」 「え」 一瞬、何を言われたのか分からずじっと岡野を見てしまう。 岡野はやっぱりつまらなそうにして、視線を逸らした。 けれど、その気持ちは言葉は温かさは、じわりと伝わってくる。 「………うん。ありがと」 「あんた、要領悪いんだから、無理すんなよ」 「うん」 乱暴な、ぶっきらぼうな口調。 不機嫌そうな顔。 けれど、温かくて優しい。 「ありがと、岡野」 もう一度繰り返すと、岡野はちらりとこちらを見て頷いた。 それだけで心臓がトクトクと急に早くなっていく。 体温が、上昇していく。 「………あの、あのさ」 別れがたくて、つい言葉を続けてしまう。 岡野が首を傾げる。 「何?」 「て、テスト終わったら、遊びに、行こうな」 出てきたのは、自分でも思いもよらない言葉だった。 俺は、何を言っているんだ。 「み、皆で!」 慌てて、先をつけたす。 まあ、岡野は分かってるだろうけど、二人きりでなんて思ったりしないだろうけど、でも、なんて恥ずかしいこと言ってるんだ。 「えっと、じゃ、じゃあ、俺帰るな!ありがと、岡野!」 振り向いて、岡野の顔が見れなくて、慌てて上履きのまま飛び出しそうになる。 それに気づいてつんのめったところで、後ろから小さな声が聞こえた。 「そうだね。遊びに行こう。昨日みたいに、ね」 驚いて顔を上げると、岡野はもう後ろを向いて教室に走って行っていた。 「三薙さん、今日は表情柔らかいですね。何かあったんですか」 栞ちゃんがにこにこと可愛く笑って、汗を拭きながら聞いてくる。 今日はお師匠様はいないけれど、三人での合同練習の日だ。 俺が三日間いないから、急遽合わせることになった。 「え、え」 「とても楽しそうです。舞も楽しそう」 「そ、そうかな」 しらばっくれてみるものの、自分でも分かってる。 あの時のことを考えると心が浮き立って、足もつい弾んでしまう。 お師匠様がいたら浮かれ過ぎだときっと怒られていただろう。 少し落ち着かないと、駄目だ。 「三薙ちゃん、何かいいことあったの?」 「だから三薙ちゃんはやめてってば………」 「ああ、ごめんなさい。またやっちゃった。三薙ちゃんももう、高校生だもんね」 もう何を言っても無駄なのかもしれない。 五十鈴ねえさんにかかると、いいか、ちゃん付けぐらいって気になってくる。 この人なら仕方ない。 「五十鈴姉さん、一兄とかは一矢ちゃんとか言わなかったの?」 俺よりも、二人は年が近くて幼馴染だったはずだ。 幼い頃はもっと交流があっただろう。 栞ちゃんが天をしいちゃんと呼ぶように、五十鈴姉さんが呼んでいてもおかしくない。 けれど五十鈴姉さんは途端に顔を真っ赤にして、挙動が不審になる。 「そ、そそそ、そんな!一矢さんに、そんなこと言えないわ!そ、そんな馴れ馴れしい。し、失礼なこと」 俺はちゃんづけなんだけど、馴れ馴れしくて失礼なのか。 いや、いいんだけど。 「………」 「………」 俺と栞ちゃんは思わず顔を見合わせて苦笑してしまう。 それからにやにやと五十鈴姉さんを見ると、耳まで真っ赤にしてしまう。 「な、何。なんでそんな目で見てるの?」 「いや、ねえ」 「はい。いいですね」 「そういえば、一兄って五十鈴姉さんには昔から優しかったよな」 「一矢さんはどなたにも優しい人ですが、確かに五十鈴さんには特に優しいですね」 「従兄妹って結婚できるんだよな」 「はい、大丈夫ですよ」 俺と栞ちゃんは同じようにいやらしく笑いながらからかうと、五十鈴姉さんはぷるぷると震えながらついに叫び出す。 「もう!二人してからかわないで!」 まるで小動物のような反応だ。 年上の人なのだけれど、かわいい。 「わ、私行くからね!」 そして頬を膨らませて、足早に去って行ってしまった。 残された俺と栞ちゃんはひとしきり笑う。 「かわいいなあ、五十鈴姉さん。お姉ちゃんっていうより、妹みたい」 「あはは。確かにかわいいですね」 おっとりとしていて純粋な五十鈴姉さんは、箱入り娘って言葉がぴったりだ。 きっと三千里叔父さんは一人娘を大事に大事に育てたのだろう。 そういえばそろそろ一兄は縁談も舞い込んできてるんだっけ。 しっかりものの一兄とおっとりとした五十鈴姉さんだったら、見た目も性格も、お似合いかもしれない。 「五十鈴姉さんは一兄の事好きなんだろうけど、一兄はどうなんだろ」 「三薙さんに分からないなら、私にも分かりませんよ。五十鈴さんに優しいのは確かだと思いますけどね」 女性全般に優しい一兄だが、五十鈴姉さんには確かに更に態度が柔らかい気がする。 幼馴染の気安さかもしれないけれど。 従兄妹って結婚は出来るけれど、あんまり歓迎されてはいないんだっけ。 うちの家系では力を強くするために結構近い血で結婚することはあるのだけれど。 父さんと母さんも、仲は良いけれどお見合いに近い形だったはずだ。 一兄がもし家のために結婚しなければいけないのだとしても、せめて一兄が好きな人だといいな。 そんな政略結婚みたいなこと、あまり考えたくないけれど。 「三薙さん、明日からお仕事ですよね」 考えてに耽っていると、栞ちゃんがこちらを見上げていた。 幼馴染の女の子を見下ろして頷く。 「あ、うん」 「そうですか。あまり無理はされないでくださいね」 「うん。栞ちゃんは平気?また顔色悪いけど」 「うちは来週から試験なんです。勉強に舞のお稽古に、女子高生大忙しです」 「まったく今時の女子高生らしくない理由だな」 「三薙さんも今時の男子高校生ぽくない理由で忙しいですね」 「本当にな」 それからまた、二人でくすくすと笑う。 やっぱり、栞ちゃんとは小さい頃から一緒にいたせいか、とても気安い。 気構えとかしない、数少ない女の子だ。 「本当に、しいちゃんもいないですし、危なくなったら逃げてくださいね」 その天へ対する絶対の信頼に、思わず苦笑してしまう。 「双兄もいるから、平気だよ。簡単な仕事らしいし」 「じゃあ、危なくなったら双馬さんに任せて逃げてしまってください」 「ひどいな」 俺はどんだけ弱いと思われてるんだろう。 まあ、弱いんだけどさ。 でも、俺にだって、出来ることはあるはずだ。 だからこそ、先宮は仕事を任せてくれたのだろうし。 卑屈には、なるな。 ちょっと哀しくなったが、栞ちゃんは純粋に俺を心配してくれてるのだろう。 だから俺は茶化して笑う。 「分かった。危なくなったら双兄に押し付けて逃げる」 「はい、そうしてください!」 「天の時は、危ないことしていいの?」 「しいちゃんは強いから、守ってくれますよ」 にこにこと笑う栞ちゃんには、本当に邪気がなくてまた苦笑してしまう。 まあ、確かに天は守ってくれるが、別に進んでしている訳じゃないだろう。 天が優しいのは、栞ちゃんにだけだ。 「天は、栞ちゃんには優しいよね」 「はい、しいちゃんは優しいですよ」 「栞ちゃんにだけ、優しいよなあ」 「どうしたんですか?」 思わずため息をついてしまうと、栞ちゃんが不思議そうに首を傾げる。 そういえば、栞ちゃんには聞いていなかった。 おそらく天の誰よりも一番近くにいる人間だ。 何か、分かるかもしれない。 「あいつ、最近変な様子とか、ない?」 「変な様子?」 「うん………、なんか、苛立ってるっていうか………」 栞ちゃんは口に手を当てて考え込む。 それからしばらくして首を横に振った。 「うーん。私には分かりませんね。しいちゃん、いつも通り優しいです」 だからそれは栞ちゃんにだけだ。 なんてことはこの恋に盲目な子に言っても仕方ないのだろう。 「三薙さんには、しいちゃんがイライラしているように見えるんですか?」 「………イライラなのかは、分からないけど、俺に対する当たりがきつくなってる気がする」 「ふむ」 栞ちゃんが、まるで探偵映画の探偵のように頷く。 それから右手の人差し指をぴんと立ててにこっと笑う。 「あのですね、しいちゃんのやることに意味がないことって、ほとんどないんですよ、三薙さん」 「え」 「だから、しいちゃんがいつもと違ったことをするなら、それは何か意味があるんです」 意味が、あるのかな。 意味が、ないって言ってたけれど。 違う、言ってないか。 気まぐれで、実験だ。 そんなの理由になんて、なりやしない。 もしかして俺をいたぶるのが意味ってことじゃないよな。 「まあ、しいちゃんも遊ぶ時とかは意味ないことしますけどね」 「う、ん」 じゃあ、やっぱり俺は遊ばれている、のか。 暇つぶし、とか。 栞ちゃんが可愛らしくにこにこと笑いながら、俺を見上げてくる。 小柄な栞ちゃんと並ぶと、俺でも大きくなったように思える。 「三薙さんは、しいちゃんと仲良くしたいんですか?」 「………」 仲良くする、なんて考えたことがなかった。 嫌いだった。 憎んですらいた。 でも、弟だったから、近しい距離だった。 普通に傍にいるものだと、思っていた。 関係性をどうこうしたい、なんて考えたことがなかった。 考えて初めて、天を知りたいと思った。 そして、天と少しでも近づけたら、と思った。 「分かりたいと、思う。その上で、仲良く出来るなら、したい」 「なるほど」 栞ちゃんはやっぱり探偵のように腕を組んでうんうんと頷く。 そのコミカルな動きがおかしくて、頬が緩んでしまう。 そして可愛らしく首を傾げて笑う。 「まあ、確かにしいちゃんって、結構きつい態度とるところがあるから、怒っても嫌ってもいいと思いますよ」 四天至上主義の栞ちゃんにしては珍しい言葉。 怒って、嫌う。 それが出来たら、楽なのだろうか。 「それに、気にしなくて平気だと思いますよ」 「え?」 「多分すぐに、その問題は解決します。だから三薙さんはあまり気にせず普通に生活していたらいいと思います」 胸を張って、栞ちゃんは断言する。 何か知っているのかと思わず身を乗り出す。 「しいちゃんは三薙さんに懐いてますからね。あっという間に態度も直ります!きっとすぐにいつもの仲良しになれますよ!」 やっぱり、あまり参考にならなかったかもしれない。 |