「あ、おかえりな」 「熊沢さん!」 玄関の扉を開けると、熊沢さんがにこにことしながら奥から出てきた。 出迎えの挨拶を言いきる前に、志藤さんがらしくなく乱暴に靴を脱いで熊沢さんに詰め寄る。 睨みつけながら近づいてくる志藤さんに、熊沢さんが目を丸くする。 「え、何、どうしたの」 「どうしたもこうしたもありません!何してるんですか!」 「俺何したっけ?」 不思議そうに首を傾げる熊沢さんに、志藤さんが言葉が出てこないように口をパクパクとする。 本当に悪気のない態度に、もしかしたらやっぱり熊沢さんがやったんじゃないのか、と思う。 「志藤さんに呪術をかけたの、あなたでしょう」 「あれ、四天さん」 けれど静かな声が、更に熊沢さんを問い詰める。 天は静かに家に上がり込みながら、不機嫌そうに息をつく。 「おかげでいい迷惑でした」 「えっと」 熊沢さんは志藤さんと天と俺の顔を順番に視線を送る。 それから困ったように、頬を掻いた。 「俺、そんな大層な呪術かけてないんですけど」 「やっぱりかけてるんじゃないですか!どうしてあなたはいつもそうやって!」 「いやー、落ち着いて落ち着いて」 志藤さんは再度ヒートアップして、もう一歩熊沢さんに近づいた。 こんなにテンションの高い志藤さんは初めて見た。 熊沢さんにはこんな態度もとるんだな。 俺にもこんな風に、フランクに接してくれればいいのに。 いや、こんな風に怒られるのは困るけど。 なんて、今の状況とはそぐわないことを、つい思ってしまった。 「その、何かあったんですか?そういえば皆さんボロボロですね」 熊沢さんが志藤さんを宥めるように肩を叩きながら、もう一度俺たちの姿を観察する。 俺たちのコートやズボンは埃や砂で薄汚れているし、擦りきれているところもあり本当にボロボロだ。 「えっと、なんか、熊沢さんの呪術とは別に、他に術がかけられたらしくて、相乗効果でとんでもないことに………」 「他に術って、え?」 俺に視線が止まったので説明をすると、熊沢さんがますます困ったように眉を潜めた。 何がなんだかわからないらしい。 もっと詳しく説明しようとする前に、天が冷たい声で言った。 「熊沢さんのかけた術は、志藤さんの過去にまつわるものですか?」 熊沢さんは天に視線を映して、頷いた。 「はあ。志藤君がどうにもトラウマ克服出来なくて中々自信がつかないから、ここらで一発荒療治してみようかな、と。トラウマの元になったものがフラッシュバックするようなものをかけてみたんですけど」 荒療治って、荒療治過ぎるだろう。 志藤さんが、顔を真っ赤にして震えている。 「三薙さんと会って、少し成長したみたいなんで、三薙さんと一緒にいたらなんとかなったりしてー、なんて」 今度は天も呆れたようにため息をついた。 そして心底うんざりとしたように、鼻に皺を寄せる。 「随分いい加減ですね。下手したら廃人にでもなってたんじゃないですか」 「いや、だからそんなに強いのはかけてないんですよ。強い術をかけたらいくらなんでも志藤君にばれますし。まあ、トラウマに負けちゃっても一月ぐらいは古傷が疼くぐらいの」 「………熊沢さん」 あんまりな言い草に、志藤さんが熊沢さんをきつく睨みつける。 今回ばかりは天の言い分に同意する。 志藤さんはとても酷い目に遭っていた。 それをこんな軽い態度で適当に扱うのは、どうなのだろう。 熊沢さんが慌てて誤魔化すように、志藤さん肩を何度も叩く。 「いやいや、ほら、うまくいったじゃないですか!ね!ね!」 でも、その言葉に同意する人間は誰もいない。 俺も天も志藤さんも、ただじっと熊沢さんを睨みつけるだけだ。 さすがにちょっと、熊沢さんのことが恨めしい。 熊沢さんはそっと視線をそらして、頬を掻く。 「えーと、他の術者の術とぶつかって、変なことになっちゃったんですね。それはまた、申し訳ないことを………」 本当だ。 もう少しちゃんと反省してほしい。 悪気がないにしても、志藤さんにはもっとちゃんと謝ってほしい。 いや、悪気はあったのか。 「どんなことになっちゃったんですか?」 熊沢さんが俺を見て聞いてくる。 他の二人は答えてくれないと思ったのかもしれない。 「………えっとなんか変な、抜けだせない迷路みたいな住宅街で、自分達にとって怖いものが現れる、みたいな」 「あー、間違いなく俺がかけた術が影響しちゃってますね。あははは、すいません」 「………」 「………」 やっぱり軽い謝罪に、俺と志藤さんはただ熊沢さんを見る。 すると熊沢さんは背筋をぴんと伸ばして、真面目な顔を作った。 そして深々と頭を下げる。 「あー、えっと、はい、誠に申し訳ないです」 「本当ですよ!反省してください!私はともかく三薙さんと四天さんも危険な目に遭ったんですよ!」 「はい、本当に反省いたします」 そしてまた深々と頭を下げる。 本当に反省しているのだろうか。 熊沢さんって、こういう人だったのか。 「志藤君にはお母さんが出てきたの?」 「………はい」 熊沢さんが顔を上げて聞くと、志藤さんはまだ怒った顔をしながら、それでも正直に頷く。 その言葉に熊沢さんは、ふっと小さく笑った。 「それにしては、いい顔してるね。いつもお母さんネタになると暗い顔してずっと引きずるのに」 「………確かに、少しは、乗り越えることが出来たかと思います」 「ほら、俺のおかげ俺のおかげ!」 「そんな訳ないでしょう!」 調子にのって勢い付くと、志藤さんがすぐさま眉を吊り上げて怒った。 この前の仕事の時には頼りない志藤さんを、熊沢さんがちょっと厳しく導いているように見えた。 でも今こう見ると、なんだか志藤さんの方が頼もしく見える。 「怒られちゃった………」 「当然ですよ………」 肩を落とす熊沢さんに、思わず突っ込んでしまう。 すると熊沢さんは今度は俺に聞いてくる。 「三薙さんには何が出てきたんですか?」 「あ、えっと………」 答えていいのか分からず、口ごもる。 ただ、思わずちらりと天の方を見てしまった。 天はただ静かに俺を見返すだけだった。 「なんか怖いものが出てきたみたいですね」 熊沢さんは分かったのか分からないのか、うんうんと一人頷いている。 そして今度はにこにこと笑いながら天に水を向ける。 「それじゃ、四天さんには?」 天はその言葉に、唇を持ち上げて嗤った。 「熊沢さん、宗家の人間の身を危険に晒したこと、なんの咎めも受けないとお思いですか?いくら双馬兄さんの専属だからと言って、兄さんと俺に害をなしたことが許されると?」 「あー、ですよねえ」 冷たい断罪の言葉に、熊沢さんは手を顔を覆いながら大仰に嘆いて見せる。 けれども、それはやっぱりふざけていて、特に気にした様子は見られない。 天の眉が吊り上がって、凶悪な笑顔になる。 「て、天!だって、無事だったし!熊沢さんもそんな風に言わないでください!」 「あ………」 見ているこっちがはらはらして、思わず天を制止してしまう。 熊沢さんが悪いのは確かなんだけど、それでも罰とかそういうものを与える気はない。 志藤さんも困ったように視線を泳がせている。 「どうかされましたか?」 その時、騒いでいるのが聞こえたのか、家の奥から小柄な影が現れた。 家に昔から仕えている老人は、相変わらず近づいてきた気配なんかを全然感じさせない、静かな登場で俺たちを驚かせる。 「これは宮城さん」 熊沢さんは動揺なんて全くせずに、にこやかに使用人頭を迎える。 宮城さんはそんな熊沢さんを見て、顔を顰める。 「またお前たちは三薙様と四天様の邪魔をしていたのか」 「お帰りのご挨拶に上がっただけですよ」 ここで熊沢さんがしたことを宮城さんに言えば、何かしらの咎めを受けることは確かだろう。 でも、確かに反省して謝ってほしいけれど、父さんや宮城さんに罰を与えられるのは嫌だ。 「て、天」 天の袖を引っ張ると、こちらを見て軽く肩をすくめた。 そしてうざったそうに俺の手を振り払い、一歩前に出る。 「ちょっと世間話をしてただけ」 「ご迷惑をおかけしてはいないでしょうか?」 「ええ」 言うことはないと分かってほっと胸を撫でおろす。 でも、それだけでは終わらず、天は熊沢さんへ向かって親しげに笑う。 「でも、あんまりふざけ過ぎないでくださいね、熊沢さん。冗談が過ぎたら次は怒りますよ」 「あはは、申し訳ありません」 対して熊沢さんも朗らかに笑う。 まるで友達同士でふざけあった後のように、和やかな光景だった。 宮城さんはそれで納得したのかどうか、ただ天に向かって頭を下げた。 「行き届かず申し訳ございません、四天様」 「別に。単なる悪ふざけですよ。気にしてない」 それだけ言って、すたすたと歩きはじめる。 「それじゃ俺は行きますね。兄さん、こっち」 「あ、うん」 なぜか手招きをされたので、俺は慌ててその後ろに続く。 でも正直助かった。 ここにいて宮城さんに何か聞かれたら、俺では誤魔化しきれないかもしれない。 「それじゃ、熊沢さん、志藤さん、失礼します。宮城さんも」 通り過ぎ様に、三人に頭を下げていく。 志藤さんとはもっと話がしたかったけれど、家の中ではあまり話すことは出来ない。 不必要に親しくすると、志藤さんに迷惑がかかる可能性もある。 志藤さんは分かったと言うように僅かに笑って、頷いてくれた。 それだけで、胸がちょっと温かくなった。 今度は外で、もっともっと沢山話したい。 年上の優しくて弱くて、でも強くて頼もしい可愛い人。 「………」 「………」 そして廊下を無言で歩く。 前を行く天は、特に何か言うこともない。 なんで俺を呼んだんだろう。 一言も発さないまま、とうとう天の部屋の前まで来てしまう。 天が無言で自室のドアを開いて、入ろうとする。 なんだ、用とかなかったのか。 宮城さんから庇ってくれたのかな。 「あ、じゃあ………わっ」 声をかけて俺も部屋に戻ろうとすると、腕を強く掴まれた。 そのまま天の部屋に引っ張りこまれてしまう。 「な、何、天?」 ドアを閉めながら、天の手は同時にそこに俺の体を押し付ける。 何がなんだかわからなくて、俺はすぐ傍にある天の顔を見つめる。 なんだか、こんなに近くで天の顔を見たのは久しぶりだ。 長い睫、白い肌、惹き込まれそうになる深い深い黒い目。 相変わらずの怖くなるほど整った、綺麗な顔。 「………」 そうだ。 最後に見たのは、あの時、以来だ。 「な、何、天………」 蘇ってきた恐怖と羞恥と屈辱で、体温がすっと下がる。 居心地が悪くて身じろぐが、天の手が俺の肩を抑えている。 天とドアに挟まれるようにして、逃げ場がなくなってしまう。 「まだ中のもの、祓いきれてないんでしょ?力も大分減ってる」 「………あ、うん」 確かにいまだに体の中に術の残滓は残っていて、絶え間なく痛みを訴えている。 倒れるほどではないが、随分力も減っている。 天が小さく呪を唱えると、俺の背中に手を添える。 その手から力を感じ、じんわりと温かかくなっていく。 「あ………」 白い力が、俺の中を浄化していく。 俺の中の黒いものを、僅かな痛みと共に駆逐していく。 ぴりぴりと体の中が痛むが、それと同時に綺麗にされる心地よさを感じる。 痛みにこらえながら、つい天の腕にしがみつく。 「んっ!」 近づいてきた天の唇が、俺の唇に触れる。 静かに入ってきた冷たい舌が、俺の舌に触れると同時にどろりと力が入りこんでくる。 絡められる舌に唾液が溢れ、それを飲みこむとより大きな力が入ってくる。 久しぶりの天の力は、やっぱり白くて一兄よりも双兄よりも強い。 「っ」 消えない居心地の悪さを感じて、天の肩を叩く。 けれど、天はびくともしない。 もうあんな目に遭うのは嫌だ。 あんな、意志を無視して物のように扱われるのは嫌だ。 「んっ、ん………」 けれど力を供給される快感は、抵抗の力と恐怖を失わせていく。 天の体を押しのける手から、力が抜けていく。 半ば閉じていた目を、全部閉じてしまいそうになる。 「………ふっ」 頭の中が真っ白になると思った瞬間、体を放される。 俺の口内を好きなように嬲っていた舌は、去っていくと同時に唾液の橋を作って、濡れた音を立てた。 天が自分の濡れた唇を、その赤い舌でなぞる。 急に支えを失って、力が抜けた俺の体はドアを伝ってずるずるとその場に崩れ落ちる。 「後は、一矢兄さんか双馬兄さんにやってもらって」 「………う、ん」 天はそれ以上何もする気はないらしい。 俺に背を向けて、すたすたと部屋の奥へと歩いていく。 中途半端に供給された体はもっと力を求めている。 思わず天に頼んでしまいそうになるが、すんでのところで留まる。 天のことは、まだ分からない。 何をされるのか分からなくて怖い。 近づきたいけれど、あんな目に遭うのは、嫌だ。 「………天」 「何?」 座り込んだまま呼びかけると、天はコートを脱ぎながら振り返った。 その表情はやっぱり無表情で、何を考えているのか分からない。 「………」 冷たくて皮肉屋で性格悪くて意地が悪くて最低なことをする奴。 でも気まぐれで優しくて結局俺を助けてくれて話を聞いてくれる。 本当は、何を考えているのだろう。 天は、何を考えているのだろう。 天のことが、怖い。 天のことが、知りたい。 弟が少しだけ近くなったように感じる。 けれど酷く遠くも、感じる。 |