「よー、三薙ー」

風呂上がりに廊下を歩いていると、次兄が行き倒れていた。
後少しで自室だというのに、俺の部屋の前でへたり込んでいる。

「双兄、大丈夫?って、くさ!また飲んでるの!?」

近づくと、最近次兄からいつも漂う甘い臭気が襲ってきた。
濃厚な酒気の気配は、今日も泥酔してることが窺われる。

「飲んで悪いか!」

双兄はふらふらと立ち上がりながら、俺に掴みかかってくる。
酒臭い息に吐き気を催しながら、なんとか言い返す。

「飲み過ぎは悪いよ!もう運ばないからな!」
「生意気な!生意気な!」
「いた、いたた、いた、やめろよ、酔っ払い!」

頭にぐりぐりと拳骨を押し付けられて、痛みで涙が出てくる。
手を払いのけると、双兄の体がはふらりと後ろに傾ぐ。

「あぶな!」

慌ててその腕を引っ張ると、双兄はふらつきながらそのまま俺に抱きついてきた。
どっしりと重い長身の次兄の体を受け止めて、俺の方が一歩後ろに下がる。

「もー」
「………儀式、四天にしたんだよな」

文句をつけようとすると、ぼそりと耳元で聞かれた。
肩に埋められた双兄の顔は、見えない。
そういえば、一月の間、少しだけ顔を合わせる機会はあったが、その話はしなかったかもしれない。

「………うん」
「そうか」

双兄が、ゆっくりと頷く気配がする。
それから、顔を俺の肩に伏せたまま、聞いてくる。

「大丈夫か?」
「………分からない」
「………」

何もかも分からない。
怖い。
いやだ。
逃げ出したい。
でも、必要なことだ。
俺が望んだことだ。
逃げられない。
逃げてはいけない。

「そう、か」

双兄の長く密やかなため息が首筋にかかる。
湿ってアルコール臭を帯びた息は、気持ちが悪い。

「………双兄?」

黙り込んだ次兄の名前を呼ぶと、がばりと体を起こした。
そして俺の両肩を抑えてにかっと笑う。

「まあ、四天も若いだけに暴走しないといいな!暴走、後、暴発ってかー、ぎゃははははは!」
「おい!」

あまりにも下品な言い草に、思わず兄の頭をチョップしてしまう。
双兄はそれでもゲラゲラと下卑た笑いをするだけだった。
本当に何を言っているんだ。
俺が悩んでいるのに、まるでどうでもいいことのようだ。

「もう、何言ってんだよっ」
「ま、気楽に行けよ。そうしなきゃいけないんだしな」

そう、気楽になれたらいいのだけれど。
もしかして双兄は俺のこと心配して、こんな風に言ってくれてるのだろうか。
わざと軽く取り扱ってくれて、いるのだろうか。

「まあ、ケツの一回や二回や三回、どってことないさ。何事も経験、経験。はまるかもしれないぞー。あ、はめられるのか」
「だからやめろ!この変態!」

いや、そんなことはない気がする。
最低だ。
あらゆる意味で最低だ。
人が深く考えないでいることを、ズバズバと切りこんでくる。
考えたくない。
そんなこと、想像したくない。

「もう、そんなこと言ってるならさっさと寝ろよ!」
「うー………」

怒鳴りつけると同時に、双兄が俺の肩にまた顔を埋める。
重いし臭いしで気分は最悪だ。

「双兄?」
「吐く」
「うええ!?」
「きもちわりー」
「ちょ、やめ!」

更に最悪な事態だ。
俺一人で双兄を引きずってトイレまで行きつけるだろうか。
いや、庭でもいい。
とにかく俺から引きはがさなければ。

「ちょ、離れろ!」
「うえ」
「やめろー!」

思い切り手をつっぱって引きはがそうとしていると、廊下の奥から朗らかな声がかかった。

「ああ、いたいた。すいませんね、またとんだご迷惑をおかけして、三薙さん」
「助けて熊沢さん!」
「はいはい、ただいま」

地獄に仏とはこのことだ。
安心したあまり、涙が出てきてしまう。
助かった。
熊沢さんはいつもどおり飄々とした様子で近づいてきて、双兄に肩を貸し支え直す。

「よっと、双馬さんこちらですよ」
「うー………、吐く」
「はいはい、トイレで存分に」

双兄は俺の時とは違って、引きずられるようにしながらも、自分の足で歩いている。
ひどい態度の違いだ。

「もう………」
「本当にご迷惑を。それでは失礼しました。お休みなさい」

俺のため息に、熊沢さんが苦笑する。
双兄は相変わらず熊沢さんの肩でぐったりとしていた。

「………双兄、平気?」
「まあ、いつものことですよ。そのうち収まります」
「………うん」

本当に最近、酒が過ぎる気がする。
酔っ払ってない双兄を久しく見ていない。

「大学四年にもなると悩みも多くて大変ですね」

そういえば双兄は大学四年生だ。
就職活動とかどうしてるんだろう。
うちの関連に入るなら、いらないんだろうけど。
悩みは確かに多いだろう。

「………酒飲みすぎるなって言っておいてください」
「ええ、ちゃんとお伝えします」

でもそれでも酒の飲み過ぎはよくない。
なによりもう巻き込まれたくない。



***




「三薙いるか?」
「一兄?いるよ」

支度をしてそろそろ寝ようとしていると、ドアがノックされた。
返事をするとドアが開き、そこにはいまだスーツ姿の一兄の姿。
会社から帰って来たところのようだ。
どこか疲れて髪や服がやや乱れた様子は、やっぱりなんだか色気がある。

「おかえり、一兄、どうしたの?」
「ただいま。大丈夫か、少し顔色が悪い」
「平気だよ」

力はまだ持つレベルだ。
色々考えこんでいたから、疲れてしまったのかもしれない。
考えこんでも、何にもならないのだけれど。
一兄は心配そうに俺の頬を掴み顔を覗き込む。

「無理はするなよ」
「うん、大丈夫。ありがと」

調子が悪い訳ではない。
ただ、鬱屈した気持ちに、思い悩み夜も眠りが浅いだけだ。
一兄が表情を改めて、まっすぐに俺を見つめる。

「四天から聞いたかもしれないが、儀式を執り行う日が決定した」

どきりと、心臓が跳ね上がる。
改めて突きつけられた現実に、またじわりと焦燥感が沸く。

「………う、ん、聞いた。週末、だよね」
「ああ。前日から離れ座敷で潔斎を行うことになる。出かけられないから予定はいれるなよ」
「………」

それを、告げに来たらしい。
前日から家にいないといけないというのは、苦痛だ。
黙って待っているだけ、嫌な考えも増えるだろう。
でも、仕方ない。

受け止めろ。
受け入れろ。
仕方のない、ことなんだ。

「そんな不安そうな顔するな」
「だって………」
「大丈夫だ。四天もよく心得ている」

俯いた俺に、一兄が苦笑して頭を撫でてくれる。
その大きな手はとても安心するものなのだけれど、やっぱり不安が消し去れない。
儀式そのものにも、天に迷惑をかけることも、寄生することに対する不安と罪悪感、そしてそんな感情を抱かなきゃいけない現実が疎ましいことも、その全てから逃げ出したくて仕方ない。

「でも、さ」
「まあ、不安になる気持ちは分かるがな。そんなに思い悩むな。ただの儀式だ」

一兄が安心させるように、俺の体を引き寄せて抱きしめてくれる。
広い胸とお香の香りが気持ちが良くて眠くなってしまう。

「………家の人って、皆、知ってるの」
「知ってるのは、先宮と双馬、四天、俺と宮城ぐらいだ。ああ、後は熊沢は知っているだろう」
「………」

その人達に、俺と天があんなことするって知られるのだ。
知っている人は少ないのはいいけれど、どの人もずっと顔を合わせてなきゃいけない人達だ。
嫌だ。

「………なんか、怖いのもあるけど、恥ずかしいっていうかいたたまれないっていうか、天に迷惑かけるのも嫌だし、ぐちゃぐちゃする」

一兄が頭を優しく撫でてくれる。
その時ドアがノックされ、一兄の体が離れた。
温もりが離れていくのが寂しくて、つい手を伸ばしそうになってしまう。

「入ってくれ」
「失礼いたします、お茶をお持ちしました」

杉田さんが、湯気の立つカップの乗ったお盆を持って入ってくる。
そして俺のベッドの横のサイドテーブルに置くと、恭しく頭を下げて出て行った。
一兄がカップを一つ取りあげて差し出してくる。

「ほら、飲むといい」

受け取ると、ふわりと漂う甘いリンゴのような香り。
ミルクがたっぷりと入ったそれは、俺が好きなお茶だ。

「カモミールティーだ」

ベッドに座りこんで、息を吹きかけ冷ます。
立ち上がる湯気に、心がユルユルと解けていく。
一口飲むと、甘いミルクとはちみつと青臭さが、口の中に広がる。
心が落ち着いてくる。

「一兄、昔から、これ、よく作ってくれたよね」

一兄が教えてくれたお茶は、そのお茶の効果通りに、俺を沈めてくれる。
指先と胃から体も温まって、ぽかぽかとしてくる。

「怖い夢見て泣いた時も、眠れなくてウロウロしてた時も、友達になりそうだった奴と駄目になった時も」
「ああ、そんなこともあったな」

一兄は、このお茶を用意してくれて、頭を撫でてくれた。
そうすると、どんな時でも、眠くなってきた。

「これ飲むと、落ち着く」
「ならよかった」

一兄がベッドに座った俺を見下ろして、頭を撫でてくれる。
大きな手とカモミールティーの組み合わせに、安心して身を委ねる。

「大したことはない。ただの儀式の一環だ。そんなに気負うな」
「うん」

重ねて言われた言葉に、今度は素直に頷く。
大丈夫。
大丈夫だ。

「………何も変わったり、しないよな」
「お前の体の負担が減る」

それから、一兄が目を細めて笑う。

「それ以外は何も変わらない。勿論俺も変わらない」

頼もしい態度に、焦燥感は薄れていく。
一兄は変わらない。

「………うん」
「お前がどう変化しても、俺だけは変わらない。お前の傍にいる」

そうだ、一兄はいつだって、変わらない。
俺の傍にずっといてくれる。
小さい頃からずっとそうだった。
一兄だけは、ずっと傍にいてくれるんだ。

「うん、ありがとう、一兄」

大丈夫だ。
だから、大丈夫。
どうなっても、一兄はいてくれる。

「体調を整えておけ。体に悪い」
「うん」

お茶を半分ほど啜る頃には、すっかり落ち着いていた。
しばらく黙ってお茶を二人で啜っていると、一兄が不意に悪戯ぽく笑った。

「そういえば、なんで四天を選んだんだ?」
「え」
「俺じゃ嫌だったのか?」

その言葉に驚いて、急いで頭を横に思い切り振る。

「そんなことない!てか、どっちにしろ、ちょっと抵抗あるけど」
「まあ、それはそうだな」

正直、抵抗感は一兄も天も変わらない。
でも、慣れているということでは、天の方かもしれないけど。

「でも、ほら、一兄忙しいし、負担が大きいし、天は嫌じゃないっていうし、利用していいっていうし」
「俺も嫌じゃなかったけどな」
「………でも」

一兄の追及にしどろもどろになってしまう。
こんなの選ばれない方がいいに決まってるけど、なんとなく選ばなかったことに申し訳なくなってしまう。
絶対に一兄の方がいい立場なのに。
一兄は必死に言い訳する俺を見て、くすくすと笑った。

「まあ、どちらでもお前が選べたなら構わない」
「………」
「四天とはうまくやってるか?」

うまく、やっているのだろうか。
相変わらず、天のことはよくわからない。

「………うん、分からないこと多いけど、前よりは少し、近づけたと思う」
「そうか」
「それでもやっぱり、分からないことだらけだけど」

分からないことだらけ。
でも、分かりたいと思う。
天と向き合いたいと思う。

「でも、きっと、大丈夫」

天も、話してくれるつもりはある。
最近ちょっとだけ近づけた気もする。
だからきっと大丈夫。

「何かあったら言えよ」
「うん」

一兄が最後にもう一度頭をくしゃくしゃと撫でて笑う。
俺も大きく頷いた。
頼もしい手。
頼もしい言葉。

「それじゃあ、早く寝ろ」
「うん、ちょっと勉強してからね」

一兄が目を細めて笑う。
やっぱり一兄にすればよかったかな、なんて思ってしまう。
でも勿論、これ以上、一兄には負担をかけられない。

「分かった、おやすみ、三薙」
「おやすみ、一兄」

だから、俺は天を選んだ。
後戻りは、出来ないし、しない。





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