家に帰るとすぐに母屋の禊場で体を清め、白装束を身につけ、一兄に離れ座敷に連れていかれた。
庭を通ってしか行けない、家の片隅に位置する座敷は、存在は知っていたが訪れたことはなかった。

日が落ちた後の宮守の庭は怖い。
鬱蒼と茂る木々達は、その影に何かを隠していそうで苦手だ。
白い石畳だけが光っていて、それを見つめながら、一兄の後ろをただ着いて行く。

怖い。
この道は怖い。
後戻りできなくなりそうで、怖い。

「三薙?」
「あ、ごめん」

一兄が足を止めそうになった俺に気づいて、振り返る。
その顔を見て少しだけ安心するが、不安は消えない。

後戻り、出来ないのだ。
そうだ、もう、戻れない。
後は進むだけ、だ。
この道を、進んで、いくだけだ。

「………」

もう俺は選んだ。
だから、何も考えず、進むしかない。
しばらく歩いた先に、その家はあった。
母屋からは大分離れていて、多少大きな音を立てても届かなそうだ。

「これが、離れ座敷?」
「ああ。改修してるから中は綺麗だ。安心しろ」

外は古びて崩れ落ちそうな印象だったが、一兄の言葉通り中は綺麗だった。
十二畳ほどの和室が一室に、沐浴用の浴室とトイレ、そして簡単に水場がある平屋の家。
和室の奥には大きなガラス戸と縁側があり、小さな庭には大きな桜の木が二本。
盛りをやや過ぎた桜が、花弁をひらひらと散らしている。

「では三薙、水と酒と塩以外は口にするな」
「うん」

小さい頃からやっているから、潔斎には大分慣れている。
腹が減るのはやっぱり苦手だけど、身を清めるのだから仕方ない。
今回は今日の昼から食べていないぐらい。
もっと長い期間肉と魚を口にしなかったり、三日間絶食するようなものに比べれば、今回はマシだ。

「沐浴を行い、心を静め、この家からは出るな。明日の夜、四天が来る」
「………うん」
「本なんかは置いてある。まあ、あまり楽しいものではないがな」
「うん」

一兄の言葉を生返事で返しながら、そのシャツを掴む。
もう、逃げられない。
逃げるつもりは、ないんだけど。

「一兄は、このまま帰るの?」
「ああ」

縋りつく俺に、一兄が苦笑する。
その大きな手が、俺の頭をくしゃくしゃと掻き混ぜる。

「大丈夫だ、三薙、不安になることなんてない」
「………うん」
「これでお前の体に心配がなくなれば、どこにだって行ける」
「うん」

そうだ、皆で海に行くんだ。
大学にだって行けるかもしれない。
もしかしたら岡野とだって、もっと長くいれるかもしれない。

「海でも山でも、お前の行きたいところへ行こう」
「うん」
「どこにだって、連れていく」

一兄の言葉に、またじわじわと勇気が戻って行く。
そうだ、楽しいことばかりだ。
一時の儀式を耐えれば、それ以上の恩恵が俺を待っている。

「………うん、だよね。怖くない。天にだって、迷惑かけてるんだし」
「………四天は」

俺の言葉に、少しだけ一兄が眉根を寄せる。

「え?」
「いや」

けれど一兄は、首を緩く振った。
そして俺の頬を右手で包み、目を覗き込んでくる。

「四天が全て心得ている。お前は任せればいい」
「………うん」

全てを心得ているって、そういう意味だよな。
儀式って、そういうことなんだし。
どういうこと教わってるんだろ。
ああ、駄目だ、考えるな。
考えなくていい。
俺の表情の強張りに気づいたのか、一兄が小さく苦笑する。

「ま、犬に噛まれるようなもんだ」
「………犬に噛まれるって、結構まずいと思うけど」
「違いない」

そしてくすくすと笑った。
犬に噛まれる、か。
でも、犬扱いするのも天に失礼だ。
あいつだって、やりたくてやってる訳じゃないんだし。

「でも、天も、嫌だよね、こんなの。俺は俺のメリットがあるけど、あいつにはないし」
「………」

あいつだってメリットがあるって言うけど、やっぱり俺にはあいつにはメリットがないように感じる。
それでも、儀式を受け入れてくれている。
俺以上に天の方が嫌に決まっている。
なのに俺がぐだぐだ言っていては申し訳ない。

「あいつも、全て受け入れているはずだ」

一兄が、ゆっくりと諭すように言う。
静かな声と頬を撫でる大きな手は、いつだって心が落ち着いてくる。

「あいつの考えていることは、俺にもよく分からないが」
「………一兄」
「でも、大丈夫だ。あいつは受け入れている。あいつは決めたことはやり遂げる」

そうだ、天は一度言ったことはやり遂げる。
嘘をつかない。
約束は守る。
だからあいつが大丈夫だって言ったなら、大丈夫。

「大丈夫だよ、三薙。すべてうまくいく」

一兄の言葉が胸に広がって行く。
一兄だって、嘘をつかない。
そう、大丈夫だ。

全て、大丈夫なんだ。



***




一日は、じりじりと、時計が壊れているのではないかと思うぐらいゆっくりと進んだ。
離れ座敷には多少の古文書なんかがあるが、それ以外の娯楽はない。
心を静め、穏やかに瞑想し、沐浴を行い、身を清める。
そういう場所だ。
でも、こんな状況で何もすることがないと、余計なことばっかり考えてしまって気は静まらなかった。

無理矢理本を読んで、眠り、何度も沐浴をしているうちに、ようやく夜が来た。
部屋には行燈しかなく、明りをつけてもそれほど明るくない。
本を読むこともできなくなってしまったから仕方なく、ただぼんやりと庭を眺める。
十六夜月の中、桜が散る様子はひどく幻想的で美しかった。

カラカラカラ。

桜をじっと見ていると、ドアが開く音がした。
つい飛び上がってしまう。

「こんばんは、兄さん」

すぐに襖が開いて、全く態度の変わらない弟が姿を表わした。
俺と同じく白装束を身につけた天は、相変わらず綺麗で、性別すら超越して見えて、これから何をするかなんて、一切感じさせない。

「………天」
「すごいよね。エッチ専用部屋なんて、どこの場末って感じ」

部屋の中を見渡して、天がくすくすと笑う。
自分が寝るために敷いていた布団が、急に恥ずかしくなってくる。
行燈の薄明りが、余計になんだか淫靡な雰囲気を作っている気がする。
そういうつもりじゃなかったが、でも、結局はそういうことをするのだ。
これからのことが、どんどんリアルになっていく。

「そんなびくびくしないでよ。俺が悪い人で、兄さんを取って食うみたい」
「ご、ごめん」

ため息混じりに首を傾げる天に、慌てて謝る。
天だって嫌なのに、俺だけ怯えていたら、失礼だ。
俺のための儀式なのに。

「まあ、無理はないよね」

けれど天はそれ以上追及することなく、手にしていた盆を枕元に置く。
盆の上にはポットと大小さまざまな陶器の瓶がいくつか載っていた。

「少し落ち着こうか。飲み物を用意するよ」

天が水屋からカップを持ってくると、ポットの中身を注いだ。
注がれた瞬間ふわりと漂うその匂いはよく知っている。
カモミールティーだ。

「はい、どうぞ」
「あ、ありがとう。持ってきてくれたのか」
「うん」

甘いリンゴのような匂いに、ふわりと心が温かくなっていく。
わざわざ、持ってきてくれたのか。
そのことが、とても嬉しく感じる。

「あ、潔斎中だけど、これ飲んでいいのか?」
「これはいいって。ミルクとか砂糖は入れないけどね」
「そっか」

天も俺の隣に座ると、自分の分を注ぎカモミールティーを飲む。
それを見てから、俺も口をつける。
何も淹れてないカモミールティーはいつもより青臭く感じる。
けれど、やっぱり心落ち着く優しい味だ。

「桜が、綺麗だ」
「うん、少し、開けるか」

天が窓の外を見て言うから、俺は立ち上がり、ガラス戸を開ける。
吹き込んでくる風は、春先と言ってもまだ冷たく、薄衣一枚の俺の体温を奪っていく。
でも、その冷たさかが心地よく、心が透き通っていくようだ。
庭にはらはらと舞い散る桜は、庭も薄紅色に染め、黒と薄紅のコントラストはとても綺麗だ。
振り返ると、天の髪も薄紅の花びらが一枚くっついていた。
歩いているうちについてしまったのだろう。

「天、髪に桜が付いてる」
「どうも」

それをつまみ上げると、天が小さく礼を言った。
いつのまにか僅かに俺より背の高くなった弟を、こんな風に見下ろすのはどれくらいぶりだろう。

俺の弟。
ずっと一緒にいた、弟。
迷惑をかけてしまう、弟。

「あの、あのさ」
「うん」
「お前の体は、大丈夫、なんだよな」
「ん?」
「この儀式を行うことによって、お前に負担って、力を貰うからそりゃあるんだろうけど、それ以上は、ないよな」

それが、心配だった。
俺に何かあるのは、そりゃ嫌だが、それでも納得できる。
俺の体の、ことだから。
でも、俺のせいで天の体に何か負担がかかるのは、耐えられない。
罪悪感に押しつぶされそうになるだろう。
俺の心情を知ってか知らずか、天は軽く頷いた。

「多分ね」
「多分、か」
「そこまでの負担はないと思うよ」

やってみなければ、分からないとうことか。
こういう術が残っているってことは、誰かやったことがあるんだろうけど、だからといって、絶対に安全とは限らない。
俺と天の力を、直接つなぐのだ。
体の仕組みを作りかえる。
それが、危険でない訳はない気がする。

「四天」
「何?」

天の前に座りこみ、正坐をする。
そして畳に手をついて、真っ直ぐに弟を見る。

「………ごめんな。いつもお前に迷惑かけて、ごめんな。お前を選んだこと、謝ってなかった。俺の我儘に付き合わせてごめん」
「………」
「いつも、ごめん。お前を利用して、ごめん」

すごく迷惑をかけている。
いつも、迷惑をかけている。
だから、ちゃんと謝りたかった。
こいつには酷いこともされた。
怒り、恨みも憎みもした。
でも、それでも、一緒に遊び、育ち、信頼してきた弟だ。

「ごめん、な」

謝罪より、感謝の方が気分がいい。
岡野の言葉が、脳裏に浮かぶ。
そうだな、岡野、謝ってばかりいるのはよくない。

「ありがとう。感謝してる。ありがと、な」

そして頭を下げた。
恨みも憎みもしたけれど、感謝しているのも、確かなのだ。

「………」

深い深いため息が聞こえて、顔を上げる。
天は嫌そうに顔を歪めていた。

「本当に兄さんって、ば、素直だよね」
「今馬鹿って言おうとしただろう!」

殊勝な気持ちになっていたのに、あんまりな言い草につい喰いついてしまう。
でも、天は皮肉げに笑うだけだ。

「兄さんが利用するんじゃないよ、俺が利用するんだ」
「………でも」

お前が俺を利用するようなことなんてない。
お前の役に立つようなこと、俺にはできない。

「気にしなくてもいいよ。俺は望んでここにいる」
「………」

けれど天はまったく気負うことなくそう言って笑った。
そして小さく首を傾げる。

「兄さんは大丈夫?覚悟は決まった?」

心はまだ恐怖と羞恥と屈辱と罪悪感と、そんなもので揺れている。
でも、決めたんだ。
俺は、決めた。

「………俺、俺、岡野と、岡野達と、もっと一緒にいたい」
「うん」

岡野ともっと、一緒にいたい。
一緒に泣いて、笑いたい。
傍に、いたい。
岡野とも藤吉とも佐藤とも槇とも一緒にいたい。
一兄や双兄や天、志藤さんとも一緒にいたい。

「だから、死にたくない」
「うん」

天は興味深そうに俺の表情を観察していた。
失いたくない。
今のこの、手にいっぱいの幸せに、まだ浸っていたい。

「だから、ありがとう。力を貸してくれて、ありがとう。お願いいたします」

もう一度頭を、ゆっくりと下げる。
いつもと違って、弟に対する屈辱も感じなかった。
ただ、純粋に感謝と罪悪感があった。

「………」

天の表情は分からない。
どんな気持ちで、俺の言葉を聞いているのだろう。

「………三つ指ついて頭を下げられると、まるで初夜みたいだね。ああ、まさしく初夜か」
「なっ」

返ってきたのは、そんな揶揄する言葉だった。
さすがに怒りが沸いて顔を上げると、天は言葉とは反対に優しく笑っていた。

「こちらこそよろしく兄さん。長い付き合いになりそうだね」
「………うん、お願いします」
「うん」

俺の言葉に頷くと、盆の上から中くらいの瓶を取りあげ、さっきカップと一緒に持ってきていたお猪口に注ぐ。
とろりとしたやや赤みがかった透明の液体を、俺に差し出す。

「これどうぞ」
「何、これ?」
「飲んで。全部ね」

渡され、喉は渇いてなかったけれど、仕方なく一気に飲み干す。
漢方のような匂いがする、甘いような苦いような不思議な味だった。

「変な、味」

あまり美味しいものではなくて思わず顔を顰めると、天が小さく笑った。

「弛緩剤みたいなの」
「は!?」

弛緩剤ってなんだ。
弛緩って、体が弛緩する、の弛緩か。
なんで、そんなもん飲ますんだ。

「まあ、痛かったり怖かったりしたら大変だからね。ちょっと反応が鈍くなるみたいだけど、兄さんなら問題ないだろうし」
「………っ」

顔が一気に熱くなってくる。
体を弛緩させるというのは、そういう意味か。
え、鈍くなるってどういうことだ。

「こっちは媚薬と言うか興奮剤というか、らしいよ」

天がもう一つの瓶を持ち上げ、ぶらぶらと揺らす。
媚薬って、なんだっけ。
どういうものだっけ。
頭が真っ白になって、何も考えられない。

「ま、兄さんにも俺にも必要ないかな」

天はそれを注ぐことはせず、盆の上に戻す。
得体の知れない物を飲まされることはないようでほっとする。

「俺もどうやら役に立たないってことはなさそうだし」
「え」

俺の手からお猪口を取りあげ、盆の上に置く。
そして呆然と座っているだけだった俺の手を、その白く滑らかな手が掴む。

「あ………」

ざわりと、背筋に寒気に似た感触が走る。
やっぱり恐怖が沸いてきて、体が震える。

「て、天」
「大丈夫、怖いことはしないよ。多分ね」

ゆっくりと引き寄せられて、天の顔が数センチのところまで来る。
近くで見ると余計に白い肌と長い睫が際立つ。
吸いこまれてしまいそうな、深い深い黒の瞳。

「て、ん」
「下手だったらごめんね。なるべく優しくはするけど」

天が間近で楽しげに笑う。
息が、顔にあたる。

怖い。
怖い怖い怖い。
逃げ出したい。

でも、逃げ出さない。
俺は決めたんだ。
大丈夫。
一兄も天も大丈夫だと言った。
それなら、大丈夫だ。

「………信じる。お前を、信じる」
「………」

天の手を強く握り返す。
一度目をぎゅっと瞑る。
そして、目を開いて、すぐ目の前にある黒い瞳を見つめ返す。

「俺は、四天、お前を信じてる」
「………・」

天は表情を消し、感情を表わさなかった。
ただ、つないだ手に、天の力が加わる。
冷たい手に、俺の体温が移って温かくなっていく。

「………宮守の血の絆は、ここに更なる絆により強固になり、この地との結びを確かにし、我が宮守の約定を………」

返事はなく、天は淡々と呪を唱え初め、術を組み上げていく。
緊張が増して、つないだ手に汗を掻く。
心臓が早鐘を打ち、破裂しそうだ。
体温が上昇していく。

「ん………っ」

天の唇が、俺の唇に重なる。
いつも供給の時に触れているけれど、なぜか初めてのように驚きを感じた。
思わずぎゅっと引き結んでいた唇を、天の舌がぬるりと撫でる。
何度も何度も唇のあわいをなぞられて、ゆっくりと力を抜くとするりと天の舌が入り込んでくる。

「あ………っ」

俺の舌に触れ、唾液が混じり合う。
天と俺の回路が繋がる。
じわりじわりと、白い力が入りこんでくる。

「ん、ん」

何度も何度も舌を絡められ、吸いあげられる。
舌の付け根が痺れるほど吸いあげられて、快感に頭が真っ白になる。

「ふっ」

唇が一旦ほどかれ、肩が軽く押される。
ぐらりと視界が揺れて、畳の上に倒れ込んだ。
行燈の薄明りの中、それでも綺麗な天の顔を見上げる。

「怖い?」
「うう、ん」

首を横に振る。
本当は怖い。
でも、大丈夫。
俺は、天を信じてる。
だから恐怖を覆い隠す。

「そう」

小さく笑った天の指が、俺の首筋を撫でる。
それだけでピリピリと全身に快感が走った。

「あ………」

白装束の襟もとが寛げられる。
天の手の平が、するりと中に入ってくる。

「んっ」

ゆっくりと体の力を抜いて、天の手に委ねる。
上を見上げると、開け放たれた窓からは外が見えた。
黒い空に、薄紅色の花が見える。
それを見ながら、じわりじわりと理性を手放して行く。

ひらひらひらひら。
桜が夜空に舞う。
暗い夜の中、薄紅の花びらが空を飾る。

桜と夜を背にした天が、俺を見下ろす。
汗を流し、上気し、息を荒げた天は、酷く生々しい。
触れた肌が熱くて、雄の匂いがして、いつもの作り物めいた弟ではないようだ。
嬌声をあげ、涙を流し、滲んだ視界の中、それでも美しい弟を見上げる。

天の熱が、俺を焼く。
俺の中を白い熱が、侵して行く。
焼き尽くされてしまう。
天と俺の境界線が、分からなくなっていく。

まるで、桜の腕の中にいるみたいだ。

天を体内に迎え入れながら、ぼんやりとそんなことを思った。





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