「………とりあえず部屋に行こう」 一瞬だけ黙り込んだが、表情を変えることはなかった。 そのまま促され、一兄の部屋に訪れる。 随分久しぶりに訪れる気がする、お香の香りがする、落ち着いた和室。 「とりあえず座れ」 そんなに長居するつもりはなかったので、首を横に振る。 すると一兄は苦笑して、自分も立ったまま聞いてくる。 「急にどうしたんだ?」 「………急じゃないよ。ずっと、考えてた。俺がなるかもしれない姿を、もう一度、見ておきたい」 最初の時も、この前の時も、二葉叔母さんをじっと見ていることは出来なかった。 強烈な印象だけは刻み込まれているのに、部屋の様子も、二葉叔母さんの顔も、よく覚えていない。 「そうか」 一兄はじっと俺の顔を見た後に、一つ頷いた。 それから踵を返す。 「少し待ってろ。先宮のご許可をいただいてくる」 目の下のクマ、少しこけた頬、少し乱れた髪。 かえって長兄の男の色気みたいなものを増してはいるが、明らかに疲れている様子だ。 「あ、別に今日じゃなくても、平気だよ。一兄疲れてるでしょ?」 だから、つい、気遣うようなことを言ってしまう。 激務で寝る時間もないような生活を送るこの人を、昔から心配してやまなかった。 この人を心配する必要なんてないのに。 酷い、裏切りをした人なのに。 どうして、こんなことを、言ってしまったんだろう。 「気にするな」 「………でも、疲れた顔してる」 一兄が、ふっと、優しく目を細める。 そして俺の頭をぽんぽんと軽くたたく。 「俺のすべては、お前のためにある。俺の行動の最優先は、お前にある」 大事だ、大切な弟だと、昔から言われ続けてきた。 昔は嬉しくて、誇らしくて仕方なかった。 でも、今はもう、あの時と同じようには受け取れない。 「どうして?俺が、奥宮だから?」 「そうだな。それもある」 一兄は軽く肩を竦める。 「それだけじゃないの?」 それだけのくせに。 俺の価値なんて、奥宮であることでしか、ないのに。 「それ以前に、お前は俺の愛しい弟だよ」 そう言って、俺の額に優しくキスをする。 その熱を温かいと、どうしても、思ってしまう。 「あああああああああああ、あああああああ、ぐう、ああ」 宮守の最深部にある、奥宮。 この前来た時と全く同じ光景がそこには広がっていた。 至る所に貼られた札と注連縄。 幾重にも張られた結界。 濃厚で、深い、闇の気配。 そして中央には、奥宮である、二葉叔母さんがいる。 「助けて助けて助けて兄さん!助けて!兄さん!」 悲痛な声で、苦しみに満ちた表情で、戒められた手足を振り回し暴れている。 顔を、喉を、全身を掻き毟り、溢れる血で衣装が汚れる。 けれどその傷自体は、見る間に癒えて、白い肌に戻る。 「兄さん、痛い痛い痛いの、痛い!ああああああああ、痛い!」 目の前にいる俺たちに気付くこともなく、ただただ、痛みに耐え続けている。 あまりに陰惨な光景に、耳を塞いで目を閉じて、いますぐここを逃げ出したい。 でも、逃げ出したら駄目だ。 「………痛い、ああああ、ああ………、兄さん」 そして、ふと、糸が切れた操り人形のように、膝から倒れこみ、横たわる。 ただ、ひたずら、父さんを呼び続ける。 父さんと、一緒にいれるのが嬉しいと言ったらしい、二葉叔母さん。 この人は、いったい、どんな人だったのだろう。 何を考えて、どう決断して、奥宮になったのだろう。 「………一兄は、二葉叔母さんが、奥宮になる前のことは、知ってるの?」 「ああ。この家に住んでいらした。穏やかで、優しく、どこか浮世離れした方だった」 穏やかで、優しい、か。 今の目の前の二葉叔母さんからは、想像もつかない。 「皆、俺が、二葉叔母さんに似てるって、言った」 別に俺は穏やかでも優しくもない。 世間知らずで常識知らずだから、浮世離れは、もしかしたらしているかもいれない。 「俺が知る二葉叔母さんは、あまりお前には似ていなかった」 一兄はじっと二葉叔母さんを見ながら、静かにそう言った。 それから、俺に視線を向ける。 「だが、昔、俺も知らない頃。二葉叔母さんは明るく朗らかでよく笑いよく泣き感情豊かな、誰からも愛される方だったらしい」 「………」 「その頃のことを知る人なら、お前と似てると言うのかもしれないな」 どちらせによ、俺にはあまり似ていない気がする。 明るく朗らかでよく笑いよく泣く人。 そして、自身の兄である、父さんに執着していた。 一兄の知る二葉叔母さんは、穏やな人。 最初から、自分の運命を知っていた人。 何があり、何を考え、そう変わっていったのだろう。 話を聞きたい。 それは、もう、無理な話なのだけど。 「………」 視線を巡らせ、室内を見渡す。 すると、奥宮の結界のすぐ右手に、飾り気のない白鞘に収められている二尺六寸ほどの剣が飾られている。 あれが、多分、泡影か。 力はそれほど、感じないような気がする。 拵えではなく、白鞘、か。 「………儀式って、痛い?」 「代替わりの儀式である、奥宮の宴自体は痛みを伴うものじゃない」 「あの、剣は?」 俺が指さすと、一兄は、ちらりと俺の顔を見る。 そして白木の鞘に包まれた剣にまた目を向ける。 「あれは、当代奥宮のお役目を終わらせるためにある」 「………そう」 やっぱりあれが、泡影か。 あれは、奥宮の任を終わらせるために、必要。 「………そろそろ出よう」 一兄が俺の肩を抱き、促す。 見たかったものは、見れた。 もう、いい。 もう、これ以上、ここにはいたくない。 「大丈夫か?」 「………」 奥宮から出ると、途端に寒気と震えが襲ってきた。 吐き気がする。 頭がガンガンと痛む。 その場に倒れこみそうになるところを、一兄が支えてくれる。 「一兄は、俺に、奥宮に、なってほしいんだよね?」 支えられたまま、背の高い兄を見上げる。 一兄は静かにじっと、俺を見つめ返す。 「お前が望むようにすればいい」 「そう言いながら、俺が奥宮になるように、仕向けてる」 全て用意周到に、張り巡らされた俺を囲う檻。 俺のための、この七面倒くさい環境を用意したのは、父さんや一兄だろう。 それもこれも全て俺を奥宮にするためのはずだ。 「………そうだな」 一兄は少しだけ間をあけて、でも頷いた。 はっきり言ってもらえた方が、楽だ。 俺に奥宮になってほしいなら、そう言えばいい。 俺を利用したいと、そう言えばいい。 「一兄は、俺のこと、どう思ってるの?」 「大事な弟で、大事な家族で、かけがいのない、愛しい存在だ」 「………」 考えることもなく、躊躇いもなく、一兄は言い切った。 でも信じられるはずがない。 こんなにも俺を裏切り追い詰め振り回した人が、俺を大切になんて想ってる訳がない。 本当のことを、言ってほしいのに。 道具としてしか見てないなら、そう言えばいい。 それでいい。 本当のことが、知りたいのに。 「それは、どこまで、本当なの?一兄、俺、なんでもいいから、本当のこと、言ってほしいよ」 「全て本当だ。俺は、お前を誰よりなにより愛しく、大切に思っている」 一兄は俺の体を支えていた腕に力を入れる。 思わず信じてしまいそうになる真摯な表情と言葉。 この人の面の皮は、どんだけ厚いんだろう。 理性のバケモノ、か。 本当にもしかして、一兄には感情なんてないんじゃないだろうか。 「俺が逃げても、一兄は、いいんだよね」 「ああ」 「栞ちゃんか、五十鈴姉さんが、代わりになる」 「打診はする」 俺が逃げたら、あの二人が、奥宮になる。 栞ちゃんは逃げないだろう。 その目的がなんであるにしろ。 五十鈴姉さんも、一兄に頼まれたら聞いてしまうかもしれない。 誰もならなかったらどうするんだろう。 今奥宮がおさえている邪がすべて解放され、宮守の土地を覆うだろう。 どちらにせよ、それを目の当たりにして、正気で居られる自信はない。 「俺がなるのがいいって思ってる?本当のこと、教えて」 一兄が、俺の顔をじっと見つめる。 俺も、その強い目に負けないように見つめ返す。 そして、一兄はゆっくりと頷いた。 「お前が一番、相応しいと思っている。お前のその力が、この宮守には必要だ。お前にしか、出来ないことだ」 俺が必要。 俺の力でしか出来ない。 宮守のため。 「………本当に一兄は、俺の扱いが、うまいなあ」 それはすべて、俺が求め続けてきた、言葉。 |