それは降り始めの雪のように儚くて。
温度も感じないくらい、小さくて。
でも綺麗で、心落ち着く。

でも。

それは眼を凝らせば、もしかしたら汚いのかもしれない。
それは触れてしまえば、きっと消えてしまう。

だから私は眼をつぶる。
だから私は手を伸ばさない。

だから私は何も考えない。



***




今日も家には、誰もいない。
千尋は部活で今日も遅いのだろう。

暗い家は、好きではない。
一人きりは、心が凍る。
温もりが求めて、手をそっと握って指を温める。

でも、誰もいなくて、私はそっと息をつく。
親も弟もいない空間で、私はようやく、深く呼吸ができる。
明かりのついていない家に、安らぎを覚えた。

食事をしようかと考えて、面倒になった。
お腹すいたら、その辺にあるものを食べよう。

さあ、今日も勉強をしないと。
受験生という肩書を持っているだけで、いつも心のどこかが重い。
嫌な時期だ。
この前の模試の結果も悪かったし、頑張らなきゃいけない。

そういえば根木も、夢にまで英単語が襲ってきた、なんて言ってたっけ。
あの男が話すと、受験勉強も笑い話になる。

眼鏡の男を思い出して、自然と頬が緩む。
あのふざけた男は、時折私を追い詰める。
けれど、以前と同じように、私に楽しさと温もりをくれる。
大好きな心落ち着く太陽と汗とタバコの匂い。
それが根木の匂い。

まるで何もなかったかのように、屈託なく笑いかけ、心を軽くしてくれる。
私はあの男を裏切ったのに。
あの男を選ばなかったのに。

それなのに、未だに昼休みは続いている。
涼しい木陰の下の、温かさに満ちた時間。

このままじゃいけないと思うのに、やっぱり私は手放せない。
あの時間を、失いたくない。

根木が付きつけてくる刃に目をそらしつつ、私は温もりだけ享受する。
こんな弱い自分が本当にうんざりするのだけれど。
でも、ずるずると、私は根木の優しさを求め続ける。

ああ、だめだ。
こんなことばかり考えていてはいけない。
さあ、勉強をしよう。

そうすれば、少なくとも何も考えなくていい。



***




ノックをされて、軽くため息をついた。
ペンを放り出して、扉の向こうの人間に声をかける。

「開いてる」
「入るね」

予想通りの、柔らかく穏やかな声。
集中を乱されて、少しだけ苛立つ。
いつの間に帰ってきたんだろう。
気付かなかった。

机に向かったまま、振り向かない。
するといつものように後ろから腕を回された。
息が、詰まる。

「ただいま」
「………おかえり」

ぎゅっと力を入れられて、耳元にキスをされた。
千尋の落ち着く腕の中、懐かしい匂いに包まれる。

「ご飯は?」
「今勉強してるから、いらない」
「一緒に食べようよ」
「お腹すいてないからいい」
「勉強なんていいよ」
「私、受験生」
「落ちちゃえばいいよ。俺と一緒に大学行こう」
「………千尋」
「どうせ、母さん達も一浪ぐらいは覚悟してるって」

苛立ちが頂点に達する。
未だに膿んでいる傷口に爪を立てられえぐられた。

「千尋!!」

私が声を荒げると、耳元で鼻を鳴らす。
子供が悪戯を咎められて拗ねるように。

「怒らないでよ」
「邪魔、しないで」

受験に失敗したら、私はまたこの優秀な弟と比べられるのだろう。
そして親はため息をつくかもしれない。
いや、呆れられも、失望もされないかもしれない。
何も言わずに、ただまたお金を出してくれるのだろうか。

私が何をしても、しなくても、あの人たちは興味がないのだから。
それを思い知らされるのは、もうごめんだ。

私が本気で怒っているのを感じたのか、千尋は身を引く。
釘を刺そうと、椅子を回して弟の方を振り向く。
そこには端正な顔に子供っぽいいじけた顔を浮かべる長身の男。
つまらなそうに、愚痴をこぼす。

「あーあ、なんで真衣ちゃん受験生なんだろう」
「あんたより、二つ年上だから」
「俺が上だったらよかったのにな。そしたら真衣ちゃんが受験生でも俺が勉強教えてあげられた」

また、馬鹿な事を言っている。
本当に、子供返りしたかのように我儘を言う。
大人びて、誰からも信頼される優秀な弟はどこへ行ってしまったのか。

毒気を抜かれてしまい、ため息をついた。
ささくれ立っていた心が、丸くなっていく。
馬鹿な弟が、愛しい、と思う。

「もうちょっと待てる?後で一緒にご飯食べよう」
「本当?」
「本当。悪いけど作って」
「うん。早く下りてきてね」

口を尖らせていた弟は、表情を一瞬のうちに輝かせる。
千尋は、こんなに表情豊かだったろうか。
私は、この十何年も、弟の何を見ていたのだろう。

上機嫌で私の部屋から出ていこうとした千尋が、ふと扉で足を止める。
そして、再度私を見て、不思議なことを問うてきた。

「ねえ、真衣ちゃん。今日は学校からすぐ帰ってきたんだよね」
「……?うん」
「………そう」

一瞬目を伏せる。
そして顔をあげると、綺麗な笑顔を浮かべる。
私のよく見知った、完璧な弟の笑顔。

「真衣ちゃんは、俺のものだよね」
「え」
「あんたは俺を裏切らないよね」

にこにこと、笑う弟。
その笑顔は本当に柔らかくて優しげなのに、なぜか圧迫感を感じる。
喉が乾いて、貼りつくような感触がする。

「ね、真衣ちゃん?」

気圧されるように、かすかに首を縦に振る。
そうだ、私は千尋を選んだ。
千尋がいてくれれば、何もいらないと、そう思ったのだ。

「よかった。ごめんね、真衣ちゃんを信じてるよ」

満足したように大きく頷いて、千尋はようやく部屋から姿を消す。
消した後もしばらく、私は机に向かえなかった。
手を握ると、じっとりと汗をかいていた。

そうだ。
私は、千尋を裏切ってなんかいない。
私は、千尋が好きなのだから。





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