忘れようとしても、追いかけられる。
逃げても逃げても、捕まえられる。
苦しくて、息ができない。

誰が、助けて。
忘れたい。
考えたくない。
私は、もう何も考えたくない。

ああ、それでも、逃げられない。
私は必ず囚われる。
だって、それは、私の中にあるのだから。




***




起きてきて、目の前にある光景に眉がよったのが分かる。
最近、胃がムカついてただでさえ減退している食欲が完全に失せる。

「おはよう、真衣ちゃん」
「あら、おはよう」
「おはよう」

いつ帰ってきていたのだろう。
珍しく父も母も二人とも揃っていた。
朝日の差し込むリビングの中、弟を含めて三人で談笑している。
絵に描いたような、家族の団欒。

「真衣ちゃん、今日は俺部活ないから、一緒に学校へ行こう?」
「………いや」
「ひどいなあ」

笑顔の弟を、殴りつけたくなる。
何度言っても覚えない千尋に、苛立ちが募る。
以前からこう言った無神経な言動には怒りを覚えたが、最近の千尋は全く遠慮がなくなった。
以前はまだ私の言うことを聞いていたのに。
今はもう、そんな気遣いも見せない。
胃が、キリキリと痛む。

「千尋は本当に、姉思いねえ。彼女に見捨てられちゃうわよ」
「ああ、今彼女いないから」
「あら、そうだったの。でも、いつまでも真衣が弟離れしないから、ちょっとは別行動しなさいよ」

笑いながらからかうように言う、母の綺麗な顔に吐き気がする。
うるさいうるさいうるさい。
あんたに何が分かる。
あんたになんか、何も言われたくない。

「彼女もいいけど、勉強はちゃんとしているのか」
「やだな、父さん、成績ちゃんと報告しているでしょ。問題ないよ。顔見せるたびに同じこと聞かないでよ」
「そうか、まあ、お前なら大丈夫か」

久しぶりに顔を見せた父が、父親らしい嘘臭い言葉を吐く。
なんて、嘘臭いくだらない光景。
薄っぺらな家族の団欒。
私の入る隙間のない、家族の輪。

お綺麗な顔に笑顔を浮かべる父も母も弟も、すべてが気に障る。
朝日の差し込むリビングも、整えられた食卓も、全部全部嘘臭い。
どんなに表面を取り繕ってもこの家は、無機質な匂いしかしない。

耐えられなくて、リビングから逃げ出す。
もう朝食をとる気はなかった。
後ろから、千尋のよく通る声がからみついてくる。

「あ、真衣ちゃん、待ってるから」

うるさい。
まとわりつかないで。
縛らないで。

違う、私は千尋が好きなのだ。
千尋がいないと耐えられない。
そう、どうしようもなく、私は一人ではいられない。
千尋がいなくちゃ、立てもしない。

千尋に傍にいてほしい。
だから、これは耐えなければいけないこと。
私は、千尋を選んだのだから。
千尋の望むとおりにしなければい。
千尋に、傍にいてもらうんだから。

空気が重い。


息が、できない。



***




「はい、清水、あーん」

言われて、口を開く。
そこに根木がクッキーを放り込む。
にこにこと笑いながら根木は自分も小さなクッキーを頬張る。

「おいしい?」
「おいしい」
「よかった。俺もおいしい」

根木はやっぱりにこにこと無邪気に笑う。
この男の笑顔が好きだと思う。
心がじんわりと、温かくなる。

どうしてだろう、この裏庭は自由に呼吸ができる。
この男の隣で、ようやく私は穏やかな気持ちになれる。
ずっとずっと、重かった空気が、軽くなる。
ここでだけは、深呼吸ができる。

男に触れられるのは、嫌いではない。
いや、むしろ、たぶん好きだ。
手を握られるのも、肩を抱かれるのも、抱きしめられるのも。
根木の匂いは、煙草と汗と太陽の匂い。
この匂いに包まれるのは、好き。

そういえば、根木にいつか、キスされた。
あの時は何も思わなかったが、思い出すと、頬にも心にも熱を持つ。

「どしたの?」
「え」
「顔が赤いよ」

長く硬い指が、私の頬を引っ張る。
ああ、やっぱり、胸が痛くなる。
熱くなる。

「ひたひ」
「あはは、反応うっすいな」

笑って、手が離れる。
温もりが離れて、ちょっと物足りなくなる。
けれど根木は笑っていて。
だから、私は嬉しくなる。

どうして、なんだろう。
どうして私は。

「ねえ、根木」
「ん、何?」
「前に、言ったよね?」
「何を?清水を好きだってこと?もちろん好きさ、愛してるよ!」
「ばーか」
「ひどい!!」

傷ついた、といって泣いたふりをする。
そんな一つ一つの仕草が、微笑ましくて、つい笑顔になる。
何も気にせず軽口が叩ける。
いつもじっとりと重い心が、軽くなる。
空気が澄んでいて、深く呼吸ができる。

付きつけてくる刃は痛いけれど、それでも根木は温かい。
根木は、優しい。
根木と一緒にいると、安心できる。

「よく考えろって」
「………考えてくれた?」
「考えたくない。けどね、ぐちゃぐちゃする。苦しい。息ができない」

ずっとずっと苦しい。
息ができない。
不安で、怖くて、たまらない。

けれど、考えないと、きっと、ずっと苦しい。
それは、前から分かっていた。
私はすぐに、逃げ出すから余計に苦しくなる。

「私ね、前にも言ったけど、たぶん、あんたのこと好き」
「おお!相思相愛!」
「あんたと一緒にいると、ほっとする。触れられるの好き。キスされるのも、嫌じゃない。たぶん、その先も平気」
「な、なになに?その熱烈告白。すっげドキドキするんですけど。できればもっとムード盛り上げる感じでお願いしたいけど」
「ばーか」

根木は、いつものように明るく茶化してくる。
だからは私は強張った体がゆるゆると溶かされる。
自然と笑いが、こぼれる。
ああ、そうだ。

やっぱり、私は根木といることが、好きなんだ。

「でも、私は、千尋を選んだ」
「………」
「だけど………」

言っていいのだろうか。
千尋を選んだ私が、この男にそれを言っていいのだろうか。
でも、吐き出したい。
我慢できない。

私はまたこの男に甘えようとしている。
利用しようとしている。

「だけど?」

けれど、根木がそう促すから。
だから私は自分の汚さを自覚しながら、この男に寄り掛かる。
最低。
どうしたら、綺麗な人間になれるんだろう。

黙っていればいい。
一人で立っていればいい。
自分が選び、自分が望んだ結末だ。
自分でケリをつけてみせろ。

ああ、それでも。

「私は………」

見たくなかった。
見てはいけない。
気づいてはいけない。
言ってはいけない。

でも、苦しい。
怖い。
不安でしょうがない。

まとわりついて離れない恐怖、違和感。
根木に触れられると、うれしい。
根木と一緒にいると、楽しい。
根木と話すと、心が安らぐ。

それなのに。
私は。

「千尋といると、息ができない」

弱くて耐えられず、吐き出してしまう。
弱さを免罪符にして、言ってはいけないことを言ってしまう。
ずっと目をそらしていたかった。
気付きたくなかった。
言っては、いけなかった。

それでも、もう言葉は止まらない。

「私は、千尋が、大事で、一緒にいてほしくて、愛しくて」

そう、私は千尋が好きで、傍にいてほしくて
だから縛って、囚えて、囚われて。
千尋の全てを奪って、その代りに全てを与えて。

一緒にいると、誓って。

「………でも、たぶん、私は千尋を」

言ってはだめだ。
まだ間に合う。
まだ目をそらせる。
まだ自分を、誤魔化せる。

「清水千尋を?」

男は好奇心に満ちた目で、先を待っている。
どこか楽しそうに。

ああ、だめだ。 見てしまった。
自覚してしまった。

「私は、千尋を、好きじゃない」

それがずっと私が感じていた、違和感。





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