忘れようとしても、追いかけられる。 逃げても逃げても、捕まえられる。 苦しくて、息ができない。 誰が、助けて。 忘れたい。 考えたくない。 私は、もう何も考えたくない。 ああ、それでも、逃げられない。 私は必ず囚われる。 だって、それは、私の中にあるのだから。 起きてきて、目の前にある光景に眉がよったのが分かる。 最近、胃がムカついてただでさえ減退している食欲が完全に失せる。 「おはよう、真衣ちゃん」 「あら、おはよう」 「おはよう」 いつ帰ってきていたのだろう。 珍しく父も母も二人とも揃っていた。 朝日の差し込むリビングの中、弟を含めて三人で談笑している。 絵に描いたような、家族の団欒。 「真衣ちゃん、今日は俺部活ないから、一緒に学校へ行こう?」 「………いや」 「ひどいなあ」 笑顔の弟を、殴りつけたくなる。 何度言っても覚えない千尋に、苛立ちが募る。 以前からこう言った無神経な言動には怒りを覚えたが、最近の千尋は全く遠慮がなくなった。 以前はまだ私の言うことを聞いていたのに。 今はもう、そんな気遣いも見せない。 胃が、キリキリと痛む。 「千尋は本当に、姉思いねえ。彼女に見捨てられちゃうわよ」 「ああ、今彼女いないから」 「あら、そうだったの。でも、いつまでも真衣が弟離れしないから、ちょっとは別行動しなさいよ」 笑いながらからかうように言う、母の綺麗な顔に吐き気がする。 うるさいうるさいうるさい。 あんたに何が分かる。 あんたになんか、何も言われたくない。 「彼女もいいけど、勉強はちゃんとしているのか」 「やだな、父さん、成績ちゃんと報告しているでしょ。問題ないよ。顔見せるたびに同じこと聞かないでよ」 「そうか、まあ、お前なら大丈夫か」 久しぶりに顔を見せた父が、父親らしい嘘臭い言葉を吐く。 なんて、嘘臭いくだらない光景。 薄っぺらな家族の団欒。 私の入る隙間のない、家族の輪。 お綺麗な顔に笑顔を浮かべる父も母も弟も、すべてが気に障る。 朝日の差し込むリビングも、整えられた食卓も、全部全部嘘臭い。 どんなに表面を取り繕ってもこの家は、無機質な匂いしかしない。 耐えられなくて、リビングから逃げ出す。 もう朝食をとる気はなかった。 後ろから、千尋のよく通る声がからみついてくる。 「あ、真衣ちゃん、待ってるから」 うるさい。 まとわりつかないで。 縛らないで。 違う、私は千尋が好きなのだ。 千尋がいないと耐えられない。 そう、どうしようもなく、私は一人ではいられない。 千尋がいなくちゃ、立てもしない。 千尋に傍にいてほしい。 だから、これは耐えなければいけないこと。 私は、千尋を選んだのだから。 千尋の望むとおりにしなければい。 千尋に、傍にいてもらうんだから。 空気が重い。 息が、できない。 「はい、清水、あーん」 言われて、口を開く。 そこに根木がクッキーを放り込む。 にこにこと笑いながら根木は自分も小さなクッキーを頬張る。 「おいしい?」 「おいしい」 「よかった。俺もおいしい」 根木はやっぱりにこにこと無邪気に笑う。 この男の笑顔が好きだと思う。 心がじんわりと、温かくなる。 どうしてだろう、この裏庭は自由に呼吸ができる。 この男の隣で、ようやく私は穏やかな気持ちになれる。 ずっとずっと、重かった空気が、軽くなる。 ここでだけは、深呼吸ができる。 男に触れられるのは、嫌いではない。 いや、むしろ、たぶん好きだ。 手を握られるのも、肩を抱かれるのも、抱きしめられるのも。 根木の匂いは、煙草と汗と太陽の匂い。 この匂いに包まれるのは、好き。 そういえば、根木にいつか、キスされた。 あの時は何も思わなかったが、思い出すと、頬にも心にも熱を持つ。 「どしたの?」 「え」 「顔が赤いよ」 長く硬い指が、私の頬を引っ張る。 ああ、やっぱり、胸が痛くなる。 熱くなる。 「ひたひ」 「あはは、反応うっすいな」 笑って、手が離れる。 温もりが離れて、ちょっと物足りなくなる。 けれど根木は笑っていて。 だから、私は嬉しくなる。 どうして、なんだろう。 どうして私は。 「ねえ、根木」 「ん、何?」 「前に、言ったよね?」 「何を?清水を好きだってこと?もちろん好きさ、愛してるよ!」 「ばーか」 「ひどい!!」 傷ついた、といって泣いたふりをする。 そんな一つ一つの仕草が、微笑ましくて、つい笑顔になる。 何も気にせず軽口が叩ける。 いつもじっとりと重い心が、軽くなる。 空気が澄んでいて、深く呼吸ができる。 付きつけてくる刃は痛いけれど、それでも根木は温かい。 根木は、優しい。 根木と一緒にいると、安心できる。 「よく考えろって」 「………考えてくれた?」 「考えたくない。けどね、ぐちゃぐちゃする。苦しい。息ができない」 ずっとずっと苦しい。 息ができない。 不安で、怖くて、たまらない。 けれど、考えないと、きっと、ずっと苦しい。 それは、前から分かっていた。 私はすぐに、逃げ出すから余計に苦しくなる。 「私ね、前にも言ったけど、たぶん、あんたのこと好き」 「おお!相思相愛!」 「あんたと一緒にいると、ほっとする。触れられるの好き。キスされるのも、嫌じゃない。たぶん、その先も平気」 「な、なになに?その熱烈告白。すっげドキドキするんですけど。できればもっとムード盛り上げる感じでお願いしたいけど」 「ばーか」 根木は、いつものように明るく茶化してくる。 だからは私は強張った体がゆるゆると溶かされる。 自然と笑いが、こぼれる。 ああ、そうだ。 やっぱり、私は根木といることが、好きなんだ。 「でも、私は、千尋を選んだ」 「………」 「だけど………」 言っていいのだろうか。 千尋を選んだ私が、この男にそれを言っていいのだろうか。 でも、吐き出したい。 我慢できない。 私はまたこの男に甘えようとしている。 利用しようとしている。 「だけど?」 けれど、根木がそう促すから。 だから私は自分の汚さを自覚しながら、この男に寄り掛かる。 最低。 どうしたら、綺麗な人間になれるんだろう。 黙っていればいい。 一人で立っていればいい。 自分が選び、自分が望んだ結末だ。 自分でケリをつけてみせろ。 ああ、それでも。 「私は………」 見たくなかった。 見てはいけない。 気づいてはいけない。 言ってはいけない。 でも、苦しい。 怖い。 不安でしょうがない。 まとわりついて離れない恐怖、違和感。 根木に触れられると、うれしい。 根木と一緒にいると、楽しい。 根木と話すと、心が安らぐ。 それなのに。 私は。 「千尋といると、息ができない」 弱くて耐えられず、吐き出してしまう。 弱さを免罪符にして、言ってはいけないことを言ってしまう。 ずっと目をそらしていたかった。 気付きたくなかった。 言っては、いけなかった。 それでも、もう言葉は止まらない。 「私は、千尋が、大事で、一緒にいてほしくて、愛しくて」 そう、私は千尋が好きで、傍にいてほしくて だから縛って、囚えて、囚われて。 千尋の全てを奪って、その代りに全てを与えて。 一緒にいると、誓って。 「………でも、たぶん、私は千尋を」 言ってはだめだ。 まだ間に合う。 まだ目をそらせる。 まだ自分を、誤魔化せる。 「清水千尋を?」 男は好奇心に満ちた目で、先を待っている。 どこか楽しそうに。 ああ、だめだ。 見てしまった。 自覚してしまった。 「私は、千尋を、好きじゃない」 それがずっと私が感じていた、違和感。 |