「真衣ちゃん」 柔和な通りのいい、声。 耳に心地いい少し高めの声は、どこか苛立ちを含んでいた。 自分でもそれに気付いたのか、目の前の男は一度息を吸う。 殺意すら覚える眼差しは、一度目を伏せると消え去った。 穏やかな、そつのない完璧な優等生が姿を現す。 「清水弟のおでましか」 プライド高いね、清水千尋。 怒りも、焦りも、苛立ちも、人には見せたくないのか。 清水真衣に見せたくないのかな。 それとも、俺に見せたくないのかな。 思ったより全然人間くさくて、その脆さに親しみすら覚える。 もっと見せてよ、清水千尋。 その感情を、もっと見せてみろよ。 俺の中にジリジリとずっと燻る熱が、ちらりと顔を覗かせる。 腕に収まっていた体が弟の声を聞いて、小さく身じろぐ。 俺はゆっくりとその頼りない体を解放した。 「真衣ちゃん、やっぱりここにいたんだ」 「ち、ひろ……?どうして、ここに……?」 穏やかに、いかにも優等生らしく微笑む清水弟。 けれどその目には険が残る。 なんだ、本当に素直な奴。 自分を隠しきれていない。 清水真衣や噂に聞いていた完璧超人には程遠い。 それとも、それだけお姉ちゃんが大事なのかな。 「ああ、ちょっと真衣ちゃんに用事があって探してたんだ」 「そう……」 「なんの、用?」 「それより真衣ちゃん、この人は?」 清水真衣はどこか気の抜けたような小さな声で弟に問う。 いつもとは違う弟の様子に、戸惑っているかのように。 しかし弟は静かに姉の困惑を切り捨てる。 「俺?」 隙のない笑顔で俺を指す。 しかしあるのは、紛れもない敵意。 独占欲むき出しの、雄の顔。 「はい、見たところ、先輩のようですが」 「はーい、俺はお姉さんとクラスメートの根木って言いまーす」 だから俺も、その挑戦にのってみた。 清水真衣にもっと深く触れるには、この弟を乗り越えなければいけないだろうから。 絶妙に、ぎこちなく奇妙な距離感。 おかしなおかしな姉弟。 「そうですか、いつも姉がお世話になっています」 「うん、噂にたがわぬ優等生っぷりだね、清水弟」 「清水千尋です」 「そうそう、千尋君。お姉さんから噂はかねがね」 柔らかく、人好きのする笑顔。 通りがよく耳に心地いい声。 丁寧で穏やかな話し方。 しかしどこか、冷たい。 「俺は、真衣ちゃんから根木さんの事を聞いた事はなかったです」 「へー、2人だけの秘密だったのかな、ね、真衣?」 「え?」 清水千尋の反応がもっと見てみたくて、清水真衣を名前で呼んでみた。 途端に端正な形をした眉が跳ね上がる。 ああ、もう本当に素直な奴。 決定的だ。 なんて、シスコン。 どろっどろの姉への執着。 姉に触れる男は絶対に許さないとでもいうのだろうか。 まずいだろ、それ。 普通の姉弟の域なんて、かるーく飛び越えちまってるだろ。 清水千尋、やっぱりおかしいのはお前だよ。 「い、いた、痛い!千尋!」 「あ、ごめん」 肩に置かれた弟の手に力が篭もったのか、清水が小さく悲鳴を上げる。 慌てて手を放す姉よりも大きく堅い体を持つ弟。 おいおい、本当に余裕ないな弟君。 「ちひろ……?」 一見のどかな昼下がり。 しかしその中に流れるなんとも微妙な空気に気付いたのか、清水が弟を見上げる。 清水千尋はそんな姉の様子を気にすることもなく、まっすぐに俺を見ていた。 すでに敵意を隠そうともせずに。 「根木さん、真衣ちゃんとは親しいんですか?」 「いや、親しいっていうかなんていうか……お姉さんとお付き合いさせてもらうことになりましたー」 そんなに分かりやすい感情見せられたら、こっちも楽しくなってしまう。 挑発半分、俺は清水を胸に抱き込んだ。 弟君は、最初見せた殺気漂う鋭い眼差しで俺を睨みつける。 唇を噛み締め、怒りと焦燥をあらわにしている。 ほらほらはみ出してるよ、弟君。 人に弱みをみせたくないんだろう、優等生。 お姉ちゃんをここまで大事に騙くらかしてきただろうに、そんなに感情的になっていいのかな。 もっともっと見せてみろよ。 その強い執着を、強い感情を、俺に見せてよ。 「んー!んー!!んーーー!!!」 「そんなに喜ばないでよ、ハニー。言ってるだろ、愛してるよ」 清水真衣が自由になる手で背中を叩いてくる。 その華奢な腕で叩かれても、こっちにはダメージもなんともない。 むしろその弱弱しい抵抗が、頼りなく哀れで、かわいい。 挑発に利用してごめんね、清水真衣。 でも、この弟君を倒さないと、君は手に入らないようだから。 本当は、君を傷つけることなんてしたくないんだけど。 気付かせないまま、緩やかに穏やかに弟から切り離したかったんだけど。 やっぱり弟君は、それを許してくれないみたい。 だから清水も、一緒に闘おうね。 臆病で疑り深くて、用心深い清水真衣。 そんな性格になっちまったのも、このシスコンばりばりの弟君のせいっぽいけど。 でも、傷つくことを恐れてたら、何にもできないから。 俺が付いてるから、強くなってくれると、いいな。 「そう……ですか………」 清水千尋の空気が変わる。 熱くて強い怒りが、冷たく低い怒りに。 それは先ほどよりもよっぽど背筋が冷えた。 「じゃあ、邪魔しちゃいましたね」 「まあねー、見てたでしょ。弟君、俺らのラブシーン」 「…………真衣ちゃん、かなりわがままでしょ。家でも大変です」 「ま、ね。でもそこがかわいんだよー」 「よく知ってるんですね」 だからその執着はおかしいだろ、って今更だけど。 姉との関係の深さを、そんなに主張してどうするんだよ、清水千尋。 お前は、どこへ行っちゃうつもりなんだよ。 「ちょっと、根木!」 この場の中心のはずなのに、ずっと蚊帳の外にされていた清水が俺の腕からもがいて逃げ出す。 男ってホントしょうもないのな。 大切なのは、清水の気持ち。 分かっているけど、挑まれると立ち向かいたくなる。 「はいはい、どうしたのハニー」 「あんたね!」 俺の勝手な彼女扱いに怒ったのか、息苦しかったのか、恐らくその両方だろう、清水が顔を真っ赤にして俺のシャツに掴みかかる。 そしてそれが我慢の限界だったと思われる。 大事な大事な姉が、自分から男に触れている光景。 清水千尋が清水真衣を静かに、けれど強引に俺から引き離した。 「いた、痛い、千尋……」 再度小さく悲鳴を上げる清水。 けれど弟は冷たい一瞥でそれを無視した。 すでに、姉への表情も取り繕ったりする余裕がないらしい。 痛みと困惑と恐怖に顔をゆがめる少女が小さく哀れですぐさま引き離したくなる。 けれど、それをしたら間違いなく大岡裁きだな。 俺は本当のお母さんだから、清水を引き裂いたりはしません。 さあ、現実を見て清水真衣。 それが、君が囚われてきたもの。 君が切り捨て、逃げ出して、闘わなければいけないもの。 「千尋……」 「邪魔して悪いけど、用事あるんだ、真衣ちゃん。ちょっといいかな」 「え、千尋」 「それじゃ先輩、失礼します。姉を返してもらいます」 返す、ね。 あからさまな挑発だこと。 光栄だね。 そこまで余裕を失くすぐらい、弟君にも分かるぐらい、清水真衣は俺に気を許してくれるのかな。 お前が余裕をなくすほど、俺は自信をもててしまう。 「貸すだけだよー。返してねー」 「真衣ちゃんはあなたのものじゃありませんから」 「じゃあ、誰のものなのかな」 「……さあ」 そんなのは決まりきったことだとでも言いたげに、歪んだ笑いで振り返る。 本当に人間味溢れた弱さと脆さ。 ああ、面白いね、清水千尋。 その強い感情が、強い執着が、俺の中に燻るジリジリとした熱を煽る。 俺は2人の後を追って、歩き出す。 いつも疲れていたお姉さん。 あの男の横にいた時の輝くような笑顔。 幸せを全身で表していたあの安らいだ表情。 ねえ、お姉さん。 今度は俺が、笑わせてあげることができるだろうか。 あの臆病な女の子を、今度は俺が守ってあげたいよ。 俺に執着してほしいよ。 |