そしてまた、日常に戻った。
まだたまにあの夢を見るけれど、それでも回数は減ってきたし、記憶の生々しさも薄れてきた。
あれが本当に現実だったのか、分からなくなる
現実味を失った、悪夢。

ていうかさ、あれ、私悪くないし。
私、殺してないし。
私、襲われそうになって身を守っただけだし。
何も悪くないし。
何も気に病むことは、ないのだ。

そもそも、女レイプしようとする奴なんて、死んでいいと思う。
ニュースとかで見るたび思ってた。
そんな性犯罪者、生きている価値ないって。
だから、私悪くない。

自分の手で、積極的に人を傷つけたいとは、思わないけど。

でも、もう気にしない。
ていうか、気にならなくなってきた。
私って、本当に喉元過ぎれば、だわ。
いいわ、それが私の長所。
素敵なスルースキル。
どうにもならないこと、考えていたって、どうしようもないし。
忘れよ忘れよ。

でも、酒は控えよう。
うん。
あれがすべての元凶だ。

「セツコ、どうした?」
「あ、ごめんなさい!えっと、これ、できた」
「うん………、うん、大丈夫だ」

そうだった。
今はアルノの仕事のお手伝い中。
集中しなきゃ。
つい、単純作業をしていると、ぼうっとしてしまう。
駄目駄目。
アルノの前では、精一杯頑張らなきゃ。

「お疲れ様。休憩しようか」
「うん!」

私の出来ることなんて、ほんとまだまだ子供の手伝い。
計算して数値チェックしたり、読めるようになった書類の分類分けしたり。
後は邪魔しにくるミカを撃退したり、アルノの健康管理したり。
そんなものだ。

でも、アルノはそんな私を褒めてくれる。
子供にするように頭を撫でてくる。
それだけで、やる気が湧いてくる。
だから、面倒な作業も全く苦じゃない。

メイドさんが持ってきてくれた香り高いお茶が、狭い経理室の中に立ちこめる。
ほっとする一時。
お茶をすすりながら、ちらりとアルノに視線を送る。
アルノは眼を細めて微笑み返してくれた。

………いいわ。
ときめく。
ああ、もう本当にときめく。

その優しいキリンのような目を見ながら、私は前から少し疑問だったことを聞く。

「………アルノは、優しい。どうして?」
「どうして、とは?」
「だって、えっと、私、全然、知らない、人間。アルノ、すごく、優しい」

本当にどうして、こんな赤の他人に優しいのかしら。
まあ、アルノが優しいのは性格っていうのもあるんだろうけどさ、でもすごい、優しすぎる。

もしかしてあれかしら。
ちょっとだけ、こう、好意とか持っててくれたりしたりするのかしら。
私の魅力にやられちゃった、とかとか!
冷静に考えると、すっぴんで鼻水出して泣きわめいている姿ばっかりみられてるけど。
いや、そこがぐっときたとか。
支えてあげたくなったとか。
そんな妄想をしていると、アルノは私の目をじっと見て答えてくれる。

「君は、とても頑張っている。知らない世界で、負けずに、頑張っている。そういう人間を支えてあげたいのは、当然だろう?」
「………でも、それは、仕方ない、からで。頑張る、しか、ない」

それは、他にどうしようもないから、やっているだけだ。
言葉覚えないと、いつまでたってもあの悪魔としか話せないし、生活には慣れてくる。
泣いて落ち込んでても、意味ないし。

ミカがやらかしたことだから、義務とかなのかなあ。
いや、それでも十分優しいけどさ、ちょっと寂しい。
けれどアルノは向かいに座る私の頭を優しく撫でる。

「でも、仕事を手伝ってくれる。何も、しなくてもいいのに、手伝ってくれる」

それは、暇だからなんだけどね。
ほかにやることないし。
ずっと勉強だけしてても、気が狂う。
外は怖いし、城の中ですることないし。
計算とか、ファイリングとか、慣れてることをしていた方が、落ち着く。
そんな理由だ。

「計算も、早い。書類の整理も、丁寧だ。とても、いい子だ。頑張っている」

いや、まあ、そういう仕事してたわけだし。
仕事してた時に比べたら、こんなの本当にガキのつかい。
片手間に済ますような作業ばかりだ。
でもアルノは皺の刻まれた手で、何度も優しく頭を撫でる。

「………でも、あまり、私、仕事、できない」
「私は、助かっている。いつもありがとう」

まるで、子供みたい。
でも、嬉しい。
もぞもぞと照れくさくて、ちょっと俯いてしまう。

仕事を褒められる、って嬉しい。
仕事って、やって当然のことだから、誰も褒めてくれない。
それは、当たり前。
やってお金もらってるんだし。

でも、こんな風に褒めてほしい時だってある。
頑張ったんだから、認めてほしい時が、ある。
それが甘えだって、わかってる。
社会人なんだから、やって当然のことだ。
でも、気が狂いそうな繰り返しの毎日をこなしていることを、褒めてほしい時が、ある。

だから、恋人とか欲しくなるのよね。
自分を認めてくれる人が、欲しくなる。
でも、褒めてほしいけど、褒めるのは面倒くさい。
それで、恋人も面倒くさかった。
本当に、自分勝手だったなあ、私。

けど、アルノに褒められると、素直にアルノの力になりたいって思う。
優しくされると、優しくしたくなるんだなあ。
私もなるべく人に優しくしよう。

「………ありがとう、アルノ」

アルノは私のお礼に、ときめきすぎて死ぬんじゃないかってぐらい優しく微笑んだ。
その後、少しだけ、目を細める。

「私の娘も、セツコのように、優しい子、だった」

そういえばアルノは、やもめだっけ。
奥さんとは死別したって聞いたけど、子供もいたのか。
まあ、この年なら、当然よね。

「娘、いるの?」

アルノは、困ったように眉をひそめて笑った。

「いたんだ」

それは、過去系の文法だった。
現在進行形では、ない。
つまり、今は、いないのだ。
それはきっと、出て行ったとか、ではなく。

「…………」
「すまない。変な話をしたね。さあ、仕事に戻ろう」

何も言えなくなった私に、アルノはお茶を飲み干して軽く伸びをする。
なんだか焦って、私は優しい人に話しかける。

「あの、えっとね、あのね」

アルノは相変わらず優しく微笑んで、こちらを見つめる。
何も言葉が浮かばない。
ああ、もっと言葉を覚えていたら、何かアルノに伝えられただろうか。
でも、何を伝えたらいいのか、わからない。

「………あのね、私は、アルノが、好きよ」

結局、そんな言葉しか出てこなかった。
ああ、馬鹿だ。
本当に馬鹿だ。
もっとなんか、あるだろう。
くそ、もっと勉強しておけばよかった。

けれどアルノはもう一度優しく私の頭を撫でる。

「私も、セツコが大好きだよ」

その手があまりにも温かくて、涙が出そうになる。
やっぱり私に女の魅力を感じている、という訳ではないようだ。
私を見て、娘さんを、思い出しているのだろうか。

でもがっかりは、しなかった。
なんだか、それはとても、嬉しい気がした。



***




アルノは、やっぱりいいなあ。
苦労した人は、人に優しいものなんだわ。
ときめくわ。

娘扱いでもなんでもいいわ。
むしろそこから生まれる愛っていうのも、ありじゃない?
ありよ、あり。
アルノを優しく労わってあげるの。
あんな苦労ばっかりしてるんだから、少しくらい癒されないと本当にぽっくりいっちゃうわ。
もう私が最後まで面倒みてあげる。
お風呂だって入れてあげるし、オムツだって変えてあげるわ!

………そういえば、アルノってまだ機能してるのかな。
まだ五十代よね。

『セツコ、そろそろ勉強に思考を戻してください』

夢溢れる将来の計画を立てていると、嫌みな声がそれを邪魔した。

『勝手に乙女のささやかな恋心を覗いてんじゃないわよ』
『本当に、恥じらいも何もなくなってきましたね』
『誰かさんのセクハラ生活のおかげね』
『生まれもっての素質じゃないでしょうか』
『死ね。十回死ね。トイレに落ちて流されて死ね』

ああ、アルノの仕事と違って、なんてこの時間は苦痛なのかしら。
まるで拷問。
ていうか本当に拷問まがいの罰を受けてるけど。
アルノに勉強もしてほしいわ。
でもアルノにあまり無理させると、ホントに倒れちゃいそうだし、しょうがないから我慢しよう。

『すっかり、元気になったようですね』
『アルノと、エミリアのおかげでね』

あの二人の優しい言葉と手で、どうにかこうにか日常生活に戻ってきた。
あ、エリアスも入れてやってもいい。
まあ、へたれだけど、頑張った。
あの後も心配してよく様子見に来てくれたし。

『エリアス、眼鏡を外すと危険なんですよね。よく無事でしたねえ』
『そんな奴を助けによこすな!』
『あなたの外出を制限していたのは、まだまだ治安が悪いからなんですよ』
『そういうことは先に言え!』

そうしたら酔っ払って散歩に出かけるなんてしなかったわよ。
どうしてこいつは言わなくてもいいことは言うくせに、必要なことは言わないのか。

『まさか抜け出すとは思っていなかったので。あまり怖がらせるのは悪いと思って』

しかし悪魔はしれっと答える。
くそ、本当に殴り倒したい。

そういえばこの世界のこととか、私なんも知らないわよ。
少しくらい言えってのよ。
言葉教える前に、色々教えることがあるだろう。
城からほとんど出てないし、国の規模とか情勢とか、さっぱりわからない。

そんなことを考えていると、ネストリはくすりと笑った。
どこか面白がるように。

『この国に興味を持ってくれたんですね』
『そりゃ、四か月もいりゃね』

自分のいる環境ぐらい、気になってもくる。
いつまでいるんだか分からないんだし。
もう、あんな目には遭いたくない。
自衛のためにも、情報は必要だ。

『それで、反政府組織とやらはどうにかなったの?』
『あれは末端も末端ですからね。相変わらず本体は無傷です。マーリス、ああ、反政府組織の名前です。マーリスは特に目的も思想もなく暴れたいだけの若者なども仲間に引き入れていますから、チンピラと変わらない人たちも多いです。遊び半分で強盗などをするような。今回のもそんなものです。だから情報も簡単に漏れる』

ネストリは軽く肩をすくめた。
ということは、まだあいつらの仲間は、いるのか。

『………そう、なの』
『何回も本体を叩こうとしているのですが、中々尻尾を掴ませない。資金源もあるようで、抵抗をやめない。どこかからか支援を受けている可能性が高い』

なんか、本当に遠い世界の話だ。
つまりテロ組織って、ことよね。
ブラウン管の向こうの世界が、今リアルに近くにあるのだ。

『………どこかって』
『敵対国とか、でしょうね。カレリアは外からより内部から切り崩す方が早い』

確か、地形的に攻めにくい地形なんだっけ。
こちらから攻めるのも大変だ、って説明されたような。
それをやってのけたミカがすごいって話を聞いた。
守りが堅いから、内部を混乱させるのが、有効なのか。

ああ、いやだな。
怖い
考えたくない。

『………』
『つまらない話をしました。さあ、勉強に戻ります』
『………うん』

私は頷いて、もやもやとした気持を振り払った。
考えても仕方ない。
私は安全なところしかもういかない。
だから、そんな危険なことには関係ない。
戦争は、私の知らないところでやっていてくれればいい。
うん、しーらない。

そして努めて、勉強に意識を戻す。
集中すれば、何も考えられない。
さあ、頑張ろう。

子供向けの本を書き写して、解読する。
しばらくその作業に没頭する。

カリカリと羽根ペンが動く音だけが響く。
ぺらぺらと本をめくっていたネストリが、ふと顔をあげた。

『あ、そうだ、セツコ』
『うん?』

私は相変わらず読み辛すぎる本にイライラしながら生返事を返す。

『四日後、元の世界へ帰れます』
『そう、わかったわ。あ、で、この文法ってどうしてこうなるの』
『ああ、これは、ちょっと崩してあります。あまり使わない表現なので覚えなくていいですよ。そのうち理解すると思います』
『そう、ありがと』

じゃあ、この文法はすっとばしていいわね。
まあ、意味は分かる。
もう少し楽しい話だといいんだけどな、これも。
子供の枕もとで語り聞かせて寝付かせるのにちょうどよさそうな神話。
本当に眠くなる。
もっとラブストーリーとかさ。

『………て、ちょっと待った』
『はい?』
『今、なんていった?』
『あまり使わない表現なので、覚えなくていいですよ』
『違う、その前!』

私は羽根ペンを放り投げて、悪魔の整った顔を見つめた。
悪魔はいつものように、とても綺麗ににっこりと微笑む。

『四日後、家に帰れますよ』

意味を咀嚼するために、一呼吸置く。
うん、聞き間違えじゃなかった。

『それをさっさと言えええええ!!!』

思わず掴みかかると、お返しに電流をくらった。





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