目覚めは唐突だった。
目を開けた瞬間に、はっきりと世界を認識する。

「っ!」

体中に鈍い痛みが走る。
赤、赤、赤、目の前が真っ赤に染まる。
赤い部屋、鉄と生臭さ、アンモニアの匂い、床のざらざらとした感触。
顔を打ち付けられる痛み、腹を蹴りつけられる痛み、痛み痛み痛み。

「〜〜っ、あっ」

漏れそうになる悲鳴を必死に噛み殺す。
ぎゅっと目をつぶる。
ダメだ、気づかれるな。
ばれたらまた痛い思いをする。
怖い思いをする。
痛いのは嫌、嫌嫌嫌いやいやいやいや。
声を上げるな。
見つかるな。

「くっ」
「セツコ?」
「きゃあ!」

手が、私の頬に触れる。
ああ、見つかってしまった。
やっぱり逃げられなかった。

「セツコ」
『あ、や、やだ、もうやだ!』

逃れようと、必死に手を払いのける。
けれどその手はまだ私の顔を追いかける。

『やだ!』
「落ち着いて、セツコ、私だよ」
『やだ、やだやだやだ』
「セツコ」

ふわりと柔らかい手が、振り回す私の手を包み込む。
暖かい、少しだけかさつく肌、優しい匂い。
この手は、知っている。

「あ………」
「セツコ、落ち着いて、もう大丈夫」

耳に染み入るような、穏やかな、凪いだ海のような声。
私の手を優しく握りしめる、暖かい手。
この手は、知っている。
そう、この世界で、私が一番好きな手だ。

「………アルノ?」
「ああ。おはよう、セツコ」

目を開けると、そこには初老の穏やかな表情の男性が私を見下ろしていた。
その顔を見るだけでいつだって嬉しくなってしまう。

「アルノ!」
「そう、アルノだ。私は君のそばにいるよ」

アルノは、いつものように泣きたくなるぐらい優しい顔で微笑んでいた。
目を細めると、腰をかがめてベッドに横になっていた私の額にそっとキスを落としてくる。
ふわりとした、鳥の羽が触れていったような感触。

「え」

え、今の何。
アルノがキスしてくれるなんて初めてじゃない。
何これ。
いよいよ、私に惚れたのか。
いいわ、いいわよ。
アルノだったらいくらでも大歓迎。

「………大丈夫かい?」
「え………」

アルノが少しだけ眉をひそめて心配そうに聞いてくる。
大丈夫って、アルノとの結婚だったらいつでも大丈夫。

「痛みは?術はかけてあるが、痛まないか?」
「痛みって………」

体は全身が鈍い痛みに襲われている。
アルノを振り払おうとしていた手は、今アルノにしがみつく形になっている。
その手首に包帯が巻かれている。
なんで、手首に包帯なんて。
しかも両手だ。
そこからもじわじわと痛みを伝えてくる。
なんで痛いの。
なんで。

「あ………」

後ろ手に縛られていた。
だから逃げられなかった。
頭突きをした。
倒れこんだ。
殴られた。
指を噛み切った。
顔を打ち付けられた。

そして、赤い部屋。
赤い赤い赤い、真っ赤に染まった床。
そこに倒れていた金髪の男の、気持ちの悪い顔。

「あ、あ、あ」
「セツコ」

どろりとした赤い恐怖が、お腹の底から溢れてくる。

「いやああああ!やあああああ!あああああああああ」

気が付けば叫んでいた。
涙がぼろぼろと流れてくる。
死ぬかと思った。
痛かった。
怖かった怖かった怖かった。
死んでしまいと思った。

痛かった怖かった痛かった。
訳も分からない悪意が怖かった。
暴力が怖かった。

「セツコ、セツコ、可哀そうに、セツコ。もう大丈夫だよ」
「アルノ!アルノアルノ!」

アルノがベッドから私の上半身を抱き起して、ぎゅっと抱きしめてくれる。
その少し据えた匂いがする体がなにより温かくて、もっとその匂いと暖かさを感じたくて、しがみつく。

『アルノアルノアルノ、助けてアルノ!アルノ!やだやだやだやだ、怖い!助けてアルノ!』
「大丈夫、大丈夫だよ。もう君を傷つけるものは何もない。ここは、安全だ。私はここにいる。守れなくて悪かった。傷つけて悪かった」
『アルノ、怖いよおお、アルノ!』
「ああ、大丈夫。もう傷つけない。もう好きにはさせない」
「うううう、ああああ」

細いけれど頼もしい腕が、私を強く強く抱きしめる。
でも足りない足りない足りない足りない。

『怖かったの、怖かった怖かった怖かった!痛かったの、痛いのは嫌なの。嫌だ、いやいやいやいや。アルノ助けて。怖かった』
「セツコセツコ、もう大丈夫だよ」
『もうやだ………』
「セツコ」

アルノが泣きわめく私の目元にキスを落とす。
瞼に、目じりに、涙を吸うように頬に。

「アルノ………ひっ、く、あ………」

頭を撫でられ背中を抱きしめられ、顔にキスを落とされ、だんだんと心が穏やかになっていく。
ただ、アルノの慰撫が、気持ちがいい。
恐怖が痛みが衝撃が、徐々に薄れていく。

「セツコ、よく頑張ったね。もう大丈夫だよ」
「アルノ………」
「もう、大丈夫だよ」

もう一度抱きしめられて、アルノの胸に顔を埋める。
トクトクと、かすかに心臓の音が、聞こえてくる。
落ち着く音。
生きている音。

私は、助かったのだ。
夢でも地獄でもない。
ここは、現実だ。
現実の、アルノの腕の中。

「………アルノ、私は大丈夫?」
「ああ、私がここにいるよ」
「うん………」

そっか。
そうだ。
アルノがいるから平気だ。
もう平気なのだ。

もう、完全に大丈夫だ。
そう確信できて、私はようやく体の力を抜くことができた。

「………ありがとう、アルノ」
「こちらこそありがとう。君が無事でよかった。無事でいてくれて、ありがとう。頑張ってくれて、ありがとう」
「アルノ………」

胸がぽかぽかと温かくなってくる。
さっきの恐怖の涙とは違う涙があふれてくる。

そう、私は頑張った。
あの時、私は逃げなかった。
逃げずに、そしてここにいる。

「私、頑張った。マリカ、守った。逃げなかった」
「ああ、君はよく頑張った。ありがとう。傷つけてごめんね」
「うん、うん!」

労う言葉に嬉しくなってアルノの胸に頬を摺り寄せると、優しい手が私の髪を梳く。
その手がとても、気持ちがいい。
小さいころ、お母さんに褒められて頭を撫でられたみたいにうずうずとくすぐったい。

バタン。

その時静かにドアが開いた音がした。
落ち着いてきていたのに、また恐怖心が湧き上がる。

「だ、誰」

アルノにしがみつきながらドアの方を見ると、そこにはにこにこと笑う金髪碧眼の美青年。
いつもと変わらないその笑顔に、なぜだかほっとしてしまった。

「あ、起きたんですか。おはようございます」
「………ネストリ」

ああ、帰ってきた、とそう思った。
もう安全なんだと、そう思った。
変わらない、世界。

「あはは、本当にひどい顔ですね。でも、無事でよかったです。あなたが死んだらやはりつまらないですからね」

そして悪魔は天使のような綺麗な笑顔でそう言った。
ああ、本当にいつも通り。
変わらない日常だ。

『お前が死ね!!!』

こんな奴の顔見て、ほっとしてしまった自分を埋めたい。





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