『………勉強って、なんでするのかしら』

ぱっと見、みみずがのったくってるとしか思えない字を前に呻く。
大分読める字も分かる単語も増えてきたが、それでも気合いを入れないと目が見ることを拒否する。
最近になって分かった。
気合いを入れてみないと、母国語じゃない言葉は言葉として認識しないのね、脳みそって。
英語とか話せる人ってなんなのかしら。
脳みその出来が違うんじゃないの。
そうよ、だから分からなくても私が悪いんじゃないの。
全部脳みそが悪いの。
遺伝子が悪いのよ。

『微分積分に、古文の活用形、落下速度の求め方に化学式』

学生時代に分かったような振りしてなんとかやり過ごした知識達。
テスト前だけ理解した気分になって、次の日には綺麗さっぱり忘れたわ。

『どれもこれも、全部思った通り役に立たなかったわ』

そしてどれも人生には何一つとして役に立たなかった。
人生で役に立つ知識なんて、出来る男の見分け方とか、利用しやすい友達の作り方とか、失敗を隠しとおす方法とか、格安スーパーとかディスカウントショップの使い方とか、そう言ったもの。
要はコミュ能力が全て物を言うのよね。
後は外見。
外見は人生の半分を左右すると思うわ。
美人ってスタート地点からすでに半周ぐらいリードしてるの。
そう、人生に必要なのは容姿とコミュ能力。

「だから、この勉強も、意味ない、思う!」

そして私は汚くて質の悪い本を放り出した。
本を乱暴に扱うことに眉をひそめながら、それでも悪魔はにっこりと笑う。

「はい、今日の愚痴はそれぐらいでいいですか?」

ああ、この本破り捨てたいなあ。
そうしたら勉強しなくて済むかな。
でもそうしたら最大出力の電流プレイなんだろうな。
前に少し破っただけでアレだったしね。
生憎私にSMプレイの趣味はない。

「美味しいもの食べたい」
「後で用意させましょう」
「お風呂入りたい」
「それも用意させましょう」
「元の世界に帰りたい」
「後300年待ってください」
「待てるか、死ね」
「はい、いいですか?」
「………ええ、いいわ」

私は頷いて、もう一度本を広げ直す。
気合い入れれば読めるようには、なったのよ。
そうよ、前向きに考えましょう。
ちゃんと勉強は身になってて、この世界に馴染んできている。
この世界に馴染むって、前向きなのかな。
ああ、前ってどっちなのかしら。
もう前も後ろも分かりやしない。

「おや、今日は随分大人しいんですね」

教本代わりの歴史書に目を落とし始めた私に、ネストリは意外そうに首を傾げる。

「分かってる。勉強、嫌い。でも、言葉、覚えない、仕方ない」

愚痴なんて言ったって、事態が好転しないことなんて分かってる。
そんなのこれまでの人生で分かり切ってる。
社長や部長の文句を言ったって、所詮下っ端、何にもなりゃしない。
そんなに文句があるなら自分で起業しろってもんよ。
でも、愚痴りたいでしょ。
愚痴るぐらいいいでしょ。
単に愚痴って頷いてほしいだけなのよ。
それの何が悪いのよ。

「ただ、あんたの顔見る、苛々する。殴りたくなる。出来ない。仕方ない。だから、文句を言う」

本当は殴りたいけど、殴れないんだから文句を言うぐらいしかできない。
悪魔はにっこりと笑って頷いた。

「そうですか。それで苛立ちが解消させるなら何よりです」
「私、本当に、思う。あんた、人間じゃない」
「よく言われます」

人の心ってものが分からないんだと思う。
いや、人の心が分かっているからこそ弄んで遊ぶのか。
本当に悪魔じゃないか。
神父様でもお坊様でもなんでもいいわよ。
こいつをさっさと祓って頂戴。

「私を祓えるような人間がいたら面白いんですけどね。まあ、私の術を解くためにも、頑張ってもう少しうまくなってくださいね。この術結構疲れるんですよ」
『ならやるな!』

さすがにあまりに殺意が沸く発言に、怒鳴ってしまう。
こいつはもしかして私の人生をめちゃくちゃにするためだけに現れたんじゃないかとすら思う。
いや、ていうか実際問題現在進行形でめちゃくちゃにされているのだが。

「まあ、そろそろ解いても別にいいんですけどね」
『だったらさっさと解け!』
「はい、大分飽きて、いえ、あなたも言葉がうまくなってきましたし」
『飽きたって言ったわよね!?今飽きたって言ったわよね!?絶対言ったわよね!』

私はこいつの玩具か。
まあ、玩具なんだろうな。
玩具以外のなんでもないんだろうな。

「そんな自分を卑下しないでも。玩具だなんて思っていませんよ。興味深い観察対象です」
『死ね。100回死ね。肥え溜めに落ちて窒息して死ね。痴漢容疑で逮捕されて逃亡してる最中で車に轢かれて死ね』

こいつを惨めたらしく殺す方法なら、後100通りは軽い気がする。
前に死にかけた時には、殺すとか死ぬとか、考えたり口にするだけでも怖かったけど、もうどうでもよくなってる。
人間ってある意味本当にたくましい。

「うーん、相変わらずいい暴言です」

けれど地球外生命体は私の精一杯の殺意に楽しそうにくすくす笑う。
そして、困ったように首を傾げた。

「ああ、術を解いたらあなたのその流れるような罵詈雑言が聞けなくなるんですね。それは寂しいです。やっぱり術を解くのやめておきましょう。それくらいこちらの言葉で罵倒できるように早くなってください」
「………」
「あ、今までになくものすごい勢いで私に対して距離を置きましたね」

やべえ、こいつ真正だ。

「………さっさと勉強しましょう」
「あの、そんな風に冷静になられると寂しいんですが」
「ほら、早く勉強しましょう」
「セツコ」

近寄りたくない。
本当に近寄りたくない。
ノーモア変態。
ストップキ○ガイ。
変質者、ダメ絶対。

「いいの、いいのよ。ね、早く勉強しましょう」
「すいません、私が悪かったです」

私が全力でドンビキしていると、珍しく悪魔は困った様子で謝った。
いや、こんなことで謝られても正直困るし。

「………」
「いつものように罵倒してくれないと落ち着かないです」

いや、本気で駄目だわ、こいつ。



***



朝、いきなり雨戸が開かれて朝日が部屋いっぱいに広がる。
まだ眠気の覚めやらない私は、ベッドにもぐりこんで眩しさがから逃れようとする。

「んー………、ノーラ、後、少し」
「おはよう、セツコ。起きて起きて」

けれど毛布をとりあげられてかけられた声は、いつもの馴染みのメイドの声じゃなかった。
シルクのように滑らかな、耳に心地よい声。
あの市原悦○みたいな家政婦のおばちゃんの声ではない。
なんとか目を開けると、そこにはブラウンの髪と目の絶世の美女。

「あれ、えーと」
「カテリナよ」

そうだ、カテリナ。
確かあの馬鹿王の娘だ。
目覚めたてで糖分の行き届かない頭では、今がどういう事態なのかが理解できない。

「か、カテリナ?」
「おはよう、セツコ」

絶世の美女は寝ぼけて混乱する私に構わずにこにこと笑っている。
笑っていてもどこか冷たい印象を受けるのは、怖いほどに整った容貌のせいだろうか。

「今日はいい天気ね。どうかしら、一緒に街まで出かけない?」
「………えーと」

いや、別に遊びにいくのは構わないんだが、なんでこんな朝から襲撃されてるんだ。
これがこっちの流儀なのか。
寝込み襲うって普通なのか。
まあ、ミカも悪魔も、平気で寝起き襲ってくるけど。
ああ、これってもしかしてこっちで普通なのか。
いやいやいや。
アルノはそんなことはしない。
アルノが間違いなく常識だ。

「さ、早く着替えて。服を持ってきたの。是非これに着替えて頂戴。ああ、ノーラ。食事は外で取るわ」
「はい、かしこまりました」

後ろにはノーラがいたらしい。
てきぱきと指示を出すカテリナに深々と頭を下げている。
命令をしなれた態度。
やっぱりこの人は王女様なんだなあ、と思う。

「さ、セツコ。着替えて着替えて」
「………」

なんてことを思っていたら服に手をかけられて、胸元のリボンを解かれる。
そしてそのまま浴衣のようなスカートの服の合わせを広げられそうになって、ようやく我に返った。

『ちょっと待ったああ!』

ベッドの上を全力で後ずさって、目の前の女性から距離を取る。
カテリナは不思議そうに目を瞬かせて首を傾げる。

「まあ、どうしたの?」
『脱がすな脱がすな!』

前にメイドさんに服を着替えさせられそうになったりしたが、断ったのだ。
日本の中流一般家庭に育った私は、人に服を着替えさせてよしとするようなセレブ魂は持ち合わせていない。

「気にしないで、女同士じゃない」
『イケメンか高収入の男に脱がされる趣味はあっても、女に脱がされる趣味はない!』
「そんなこと言わないで」
『へ、変態!』
「まあ、ひどい」

あれ、私今日本語で話してるよな。
なんで普通に言葉が通じてるんだ。
嫌な想像をして、思わず恐る恐る美女を上目遣いに見る。

「待った。言葉、分かる?私の言葉?」
「いいえ、なんとなく勘で話しているだけよ」
「………」

本当なのだろうか。
本当に、分かってないのだろうか。
こいつもあの悪魔と同じようなエセ手品使ってるんじゃないだろうな。
カテリナが私の警戒している理由に思い至ったのか、ああ、と納得したように頷く。
そしてにっこりと笑った。

「****の術の事を言ってるのね。マスターがかけている術を私もかけていいかしら。私もあなたの言葉を知りたいわ」
『いい訳あるか!』
「残念だわ」

やべえ、こいつも大概だ。
なんでこうなんだろう。
どうして私の周りはこんな人間ばっかしかいないんだろう。
この世界狂ってる。
間違いなく狂ってる。
あ、泣けてきた。

「それじゃ、早く着替えてね。待ってるから」

けれど半泣きになっている私に、カテリナは気付きもしない。
服をそっとベッドの上において、部屋から出ていった。
その服を見つめて、心から思った。

『………まともな人間に、会いたい』

厄年は、来年だったはずなんだけど。
一体私が何をした。





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