突然部屋に入ってきた父に、名前を呼ばれた。
珍しい。
父が人前以外で私の名前を呼ぶことなどほとんどない。
まして私の部屋に訪れることなんて、今まであっただろうか。
椅子から降り、背の高い男の前に立つ。
隙なくスーツを着込んだ人は、不機嫌そうに口を引き結んでいる。

「どうしたんですか?」
「アレを連れてきた」

父はいつでも必要最低限に用件を伝える。
たまに簡潔すぎて意味を取りづらい時があるが、聞き返すと理解のない子供に苛立つように眉を潜められる。
それでも、母のように感情的で意味をなさない言葉を投げられるよりずっと楽だ。
父の言葉には無駄がないから。

しかし簡潔すぎる父の言葉だが、今回はそれで全てが分かった。
父と私の間の共通の話題など数える程度。
その中で、思い当たることは一つしかない。

思わず行儀悪く父に駆け寄ってしまう。
父はそれを咎めることはしなかった。

「本当ですか!?」
「離れにいる」
「あ、あの」

声が上ずって震える。
浮き立つ心を、抑えきれない。
でも、ここで駆けだしてしまったら父の機嫌を損ねるかもしれない。
そうしたら、彼と会うのを禁止されてしまう可能性がある。
だから駆けだしそうになるのを止め、私は精一杯礼儀正しく父に許しを乞う。

「あの、会いにいってもいいでしょうか?」
「好きにしたらいい。アレがいいと言うなら、いつでも会っていい」
「あ、ありがとうございます、ありがとうございます!」

心からの礼を言うと、父は興味を失くしたように背を向けた。
父が完全に部屋から出たのを見届けて、私は駆け出した。
いつもならはしたないと咎められるから廊下を走ることなんてない。
そもそも走り出したいような出来事だってなかったけど。
でも、今は何も考えられない。
彼に会える、ただそれだけしか考えられない。

広い家の、普段は使われていない一角。
一族の生活スペースとして使用されている母屋から庭を挟んだ向かい側になる、屋敷の隅にある小さな平屋。
茶室のようなこじんまりとした日本建築は、一応生活できる必要最低限の機能が備わっている。
普段は誰もいないが、客人や、時折父や叔父などがそこを使用していた。

使用人が使うスリッパをはしたなくつっかけ、小さな東屋を目指す。
心は相変わらず沸騰する寸前のお湯のように沸き立っていて、ことことと揺れている。
静まり返った庭から、あどけない笑い声が響いてくる。
その声を聞いて、一瞬涙が出そうになった。

庭に面した縁側から、障子を開け放した部屋の中が見える。
中には目鼻立ちのくっきりとしたどこか異国の血を引いているような美しい女性と、女性によく似た小さな男の子が見える。
男の子が何かを一生懸命話しかけ、女性はそれをにこにこと笑って聞いている。
温かく、穏やかな光景。
この家に、こんなにも光に満ちた光景があるなんて知らなかった。

ああ、あの子だ。
本当に、あの子だ。
私の兄。
私に色々なものをくれた、彼だ。

思わずその場で立ち止まった私に気付いて、男の子が顔をあげる。
そしてきょとんと首をかしげた。

「あれ、君は」
「あ、あの」

何を話そう、とずっと考えていたのだ。
彼に会ってからずっと。
車の中の私のお願いに父は黙り込んでしまったから、本当に兄にもう一度会えるかどうかは分からなかった。
けれど、繰り返して考えたのだ。
あの時、私はうまく話せなかった。
彼の言うことに、ただ頷いていただけ。
だから、今度はもっとちゃんと話そうと、そう考えていたのだ。
兄にも楽しんでもらえるように、色々、私の知っていることなんてほとんどないけれど、それでも精一杯楽しんでもらえるように頑張って話そうと。
そして、彼のことを色々聞こうと思っていたのだ。

なのに、実際目の前にすると、言葉が出てこなくなってしまう。
胸がいっぱいで、喉に綿がつまったように、息が詰まって、苦しい。
すぐそこまで来ている言葉を口から出すことができなくて、もどかしい。

「君もここに住んでるの?僕も今日からここに住むんだって。すごい大きなマンションだね。君のお部屋はどこ?この公園の向こうにあるの?」

黙り込んだ私に、少年はにこにこと笑って話しかけてくる。
口を挟む隙を見つけられず、私はもごもごと口ごもる。
ああ、情けない。
私の受けてきた教育は一体なんなのだろう。
こんな時、何を話せばいいのだろう。

次々に繰り出される兄の言葉を止めたのは、私ではなかった。
澄んだ、管弦楽器のような高く綺麗な声が、小さく響く。

「あなたは………」
「あ………はじめまして。こんにちは」

教え込まれた挨拶を、型通りに口にする。
美しい女性は派手な印象とは裏腹に、儚くたおやかに、困ったように首を傾げる。
なんと答えたらいいのか、迷っているのだろう。
それは、そうか。
母の戸惑いに気付かないのか、目鼻立ちのはっきりとした少年は大きな目を細めて私を紹介する。

「お母さん、この前この娘と遊んだんだ。おうちの公園にいてね。あ、あのね、こっちは僕のお母さんだよ」
「そう………、お友達、なのね」
「うん!お友達だよね、ね?」
「はい」

私は素直に頷く。
おともだち、という言葉が本当に嬉しくて胸の中がポカポカとしてくる。
ああ、やっぱり。
やっぱりこの子を、連れてきてもらってよかった。
そう、私はこれが欲しかったのだ。

「ねえねえ、どうしたの?何しにきたの?」
「あ、あの、あなたと、遊びたくて………」
「あ、そうなんだ!お母さん遊びに行ってきていい?」

私のつたない誘いの言葉に、男の子は顔を輝かせる。
喜んでもらえたのが嬉しくて、ほっとした。
そんなことはないと思っていたけれど、嫌な顔をされたらどうしようかと思ったのだ。
今まで人の反応が、怖いと思ったことはない。
人がどう考えようと、私には関係なかったから。
けれど、この子の反応だけは、怖かった。
兄にだけは、嫌われたくなかった。

問われた女性は、表情の選択に困ったように中途半端に笑って首を傾げる。
彼女は、私が誰だかは分かっているのだろう。
この家に子供は、私と、そしてこれからは兄しかいない。
私は、この場の選択権を握るであろう、女性に許しを乞う。

「あの、遊んできていいですか?」
「…………」
「お母さん、いい?」

畳みかけるように兄も母を見上げた。
許されないとは思っていないのだろう、その顔は期待に満ちている。
一瞬黙り込んだ女性だったが、薄く笑うと小さく頷いた。
ひとまず許しをもらえて、安心した。
私が兄を振り返るよりも早く、兄は私の手をとった。

「じゃあ、遊びにいってきます!」

言うが早く、縁側から飛び跳ねるように降りる。
縁側の下に突っ立っていた私は、引っ張られるようにしてつんのめる。

「こら、靴をちゃんと履いていきなさい」
「あ、はーい!」

裸足のまま飛び出した男の子を、母は苦笑してたしなめる。
その言葉を聞いて、兄は裸足のまま外から玄関に向かい靴を取りに行く。
なんて粗暴で、教養のない行動。
それでも、その行動すべてに、心が温かくなる。

きっと、これは好ましい、という感情なのだろう。





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