今度こそきちんと靴を履いてきた兄に断り、使用人のスリッパそのままだった私も靴を取りに母屋に帰る。
手を繋いで表玄関に向かう途中、大きな影が私達の前をさえぎった。
何事かと顔を上げると、低く通りのいい力強い声が降ってきた。

「へえ、こいつがそうなのか」
「………おじさま?」

現れたのは、首が痛くなるほど見上げないと顔が見えない大きな人。
背の高い父よりも更に大きく幾分がっしりとした体をして、若々しくどこか人を威圧する獰猛さを持っている。
10近く、年が離れた父の弟。
ライオンに似ている人だ、といつか思った気がする。

「全く兄貴もやることがエグいな」

右の口端をあげる息が苦しいような独特な表情で、くっと喉を鳴らす。
そんな表情も、テレビで見た肉食の動物のようだ。

「………誰?」

私と叔父を見比べて、兄がこそこそと私の背に隠れる。
頼りにされているような気がして、ちょっと嬉しくなった。
お姉さんぶって、したり顔で説明する。

「この方はお父様の弟です。私の叔父様です。あなたの叔父様でもありますね」
「お前言ってること分かってるのか?この利口ぶったクソガキが」

皮肉げに笑って、叔父が私を見下す。
その言葉を意味するところは分かる。

父の弟であるところの私の叔父は、間違いなく兄にとっても叔父。
しかし、それは一般的ではないのだ。
兄と私は母親が違う。
それが一般世間と比べて異質であることは、口さがない使用人などの会話から漏れ聞いて分かっている。
兄の母は愛人や妾、と呼ばれる立場だ。
周りから見て、あまり好ましく思われないものらしい。
勿論、その子供であるところの兄も。
そして何より私の母親であるところのあの女性は、この親子を認めないだろう。

けれど。

「お父様の考えや、お母様がどう思われるかは、私には関係ありません」

今までだって、関係なかった。
父と母は私に指示を与える。
私はそれに従う。
私と二人の間にはその関係があっただけだ。
だから、私はその辺はどうでもいい。
ただ、この男の子がそばにいること。
それだけが私にとって大切なことだ。

今回彼が欲しいといったのは、確かに私だ。
けれど、私のお願いなど、父にその気がなければ一蹴されていただろう。
つまり、これは父からの許可だ。
父の許可と指示は、この家において何よりも優先される。
例え母が反対しようと、父には逆らえないのだ。
だから、私は彼と一緒にいることができる。

私に大切なのはそれだけ。
それ以外のことは、どうでもいい。
父の思惑も、母の感情も、どうだっていい。

「………クソガキが。関係ない、ですめばいいけどな」

吐き捨てるように、忌々しく私を睨みつける。
私が見る叔父は、いつだって不機嫌そうだ。
どうやら、叔父は父と私にあまりいい感情を持っていないようだ。
叔父の感情などどうでもいいのだが。

私の後ろで恐る恐る叔父をうかがっていた兄が、そこでようやく口を開く。
おずおずと、けれど好奇心を興味を湛えて。
その大きな目が、キラキラと光って私は心が温かくなる。

「………おじさん?」
「………ああ」
「えーと、お父さんの弟だから、僕の、えーと?」
「だから、叔父さんだって」
「おじさんって、マンションの隣の人もおじさんだったよ?」
「えーとだな、親の弟のことを叔父さんって言うんだ」
「え、じゃあ隣のおじさんも、お父さんの弟!?」

そこまで来て、私と叔父は同時に吹き出した。
純粋に目を白黒させて驚いている兄に、自然と笑いがこみ上げる。
思わず笑ってしまう、なんて、初めてじゃないだろうか。
心が落ち着かなく、浮き立つ感覚。
けれど悪い気分じゃない。
命じられていない笑いが、こぼれる。

ああ、なんて。
なんて。
なんて。
そうだ。
なんて、楽しんだろう。
これが、きっと楽しいということなんだ。

叔父も不機嫌さのとれた柔らかい表情で、兄の頭をくしゃくしゃと撫でる。
くすくすと笑いながら、しゃがみこんで視線を合わせた。
叔父のこんな態度も初めて見る。

「いや、お前のお父さんの弟は俺だけだ」
「えっと、じゃあ、えっと」
「そっか、そうだな。じゃあ、京胡って呼べ」
「きょうご?」
「そうだ、京胡さんだ」
「京胡さん?」
「ああ、おじさんて呼ばれるのも嫌だしな。京胡さんだ」
「うん、分かった!京胡さん!お父さんの弟は、京胡さんだね!」
「うん、そうだ」

褒めるように、さらに頭をくしゃくしゃとした。
兄は嬉しそうににこにこと目を細める。
その笑顔が叔父に向けられていることに、私は少しだけむっとした。
叔父になんか、笑顔を向けることはないのに。

「お前の名前は?」
「僕はね、響っていうんだ。お母さんはね、ひーちゃんって呼ぶよ。でもね、子供ぽくて嫌なんだ。お父さんは響っていうんだ。だからね、京胡さんも響って呼んでね」
「よくしゃべるなあ、響」
「あ、それね。よくお母さんも言うんだ。あんたは喋りすぎだって。でもそんなことないよ。僕結構我慢してるんだよ?お外では喋らないし、ちゃんと電車では我慢するんだよ」

一生懸命身振り手振りを加えて、自分の名誉を守るためにしゃべり続ける。
その微笑ましい様子を見て苦笑しつつ立ち上がると、叔父は響の頭をぽんぽんと叩いた。

「いやー、普通のガキんちょってのはこういうもんだろ、おい。なんか感動するな。なあ、くそ生意気なそこのガキ」
「すいません」

最後の言葉は私に向けられたようだ。
いつものことだ。
叔父は私のことをガキとか、クソガキ、と呼んで生意気だとなじる。
私のことが気に入らないのだ。
しかし、どう反応したら喜ばれるのかも分からない。
仕方なく素直に謝る私に、叔父は意地悪そうに笑って見下す。

「たまにはガキらしく言い返してみろよ」
「言い返したら、どうなるんですか?」

それは、純粋な疑問だった。
私に求められているのは、指示に従うことだ。
やりたくない、と言ったことはない。
指示を与える人に、口応えなんてしたことない。
そんなこと、指示されていないからだ。

言ったらどうなるんだろう。
歯向かったら、どうなるんだろう。

私が思いつくのは、簡単なことだ。
父と母に叱責される。
特に母には機嫌が悪かったら手をあげられるだろう。
食事を抜かれ、睡眠時間を削られるかもしれない。
それをすることに、何の意味があるのだろう。

私が問いかけると、叔父は天井を仰いで大きなため息をつく。
不機嫌そうに笑うと吐き捨てるように、答えを返してくれた。

「ま、何にもならないわな」
「そうですか」

叔父の言うことはいつも意味がなさないことが多い。
時間の無駄なので、あまりこの人と話すことは好きではない。
目上の人や親戚の人には礼儀正しくしろと指示されているので、話しかけてくるなら答えはするが。

いつでも私の顔を見ると不機嫌そうに顔を歪めるくせに、何かしら言いにくる。
それは、叔父にとっても時間の無駄のような気がする。
嫌ならば、会いにこなければいいのに。
本当に、不可解な行動をする人だ。

私達が話している間に、そわそわと周りを見回していた兄が私の腕を引く。
温かい手に、そこから血が巡っていくような気がした。

「ショウコちゃんショウコちゃん、ねえねえ、あっちの公園に行こうよ。池があったよ」
「あ、はい。あれは公園じゃないんですよ。お庭です」
「お庭?」
「はい」

今にも縁側から走り出しそうな響に、私は顔がほころぶ。
なんだろう、このただ広く冷たいだけの家が、景色が変わっていく気がする。
この家は、こんなにも色が沢山あっただろうか。
温かい太陽に照らされた緑は、こんなにも眩しかっただろうか。

「………へえ」

叔父が、興味深げに顎をさすって私の顔を覗きこむ。
私も響と早く庭に駆け降りたい気分を抑え、叔父を見上げた。

「どうしたんですか?」
「いや、遊びに行くんだろ、行けよ」
「はい、失礼します。響さんもご挨拶してください」
「あ、えっと、さようなら?」
「ああ、またな響」
「うん!」

響が手を思いきり振る。
叔父は常にない優しい顔をして、その小さな頭をくしゃくしゃとかき回した。
そういえばやはり私の前ではいつでも不機嫌な父も、響の前では見たことのない顔をしていたっけ。
兄には、人の気持ちをわくわくとさせる、何かがあるのだ。

まるで自分のことのように、誇らしい気分になる。
この男の子は皆に愛されるのだ。
その皆に愛される男の子は、私の兄なのだ。

胸の中がむずむずとする落ち着かない気分のまま、先にかけ出した響の後を追う。

「おい、クソガキ」

いい加減イライラとしながらも、それでもその感情を押さえつけて振り向く。
叔父は私を見ていなかった。
そっぽを向いたまま、小さな声でそれを指示した。

「はい?」
「義姉さんと、響の母親には気を付けておけよ。なんかあったら俺に言え」
「はい?わかりました」

言われるまま、頷いた。
それは指示だったから。
その言葉の意味を、よく理解はできなかったけれど。

「………全くお前は父親そっくりだよ」

ぼそりとつぶやいた言葉は、私には向いていなかったようだ。
だから私は今度は答えずに、兄の背中を追った。





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