帰るところは、一つだけでいい。



- 黒幡 -




「………」

カラカラとうるさく音を立てる扉を開けると、わずかに埃っぽい匂いが鼻をつく。
この半年足らずの生活で、すっかり馴染んでしまった、匂いだ。
決していい匂いではないのに、ほっとしてしまう、匂い。

『今の生活、満足か?』

ここ最近、ふと蘇ってくる松戸の言葉。
答えは決まってる。
色々な人から、同じようなことを聞かれた。
そう教授や鳴海さんからも、同じことを言われている。
よく先輩と一緒に暮らしていられるな。
それに対する俺の答えはいつも一緒。

満足だ。
先輩との生活に、俺は心から満足している。
それは間違いない。

先輩の作品を一番に見ることの出来る喜び。
そのメリットがあれば、家事だって雑用だってセックスだって苦にはならない。
先輩の極めて自己中心的な性格だって我慢できる。
むしろ安いくらいだ。

そう、答えていた。
そしてそれは嘘偽りない、俺の気持ち。

先輩のことは、ぶっちゃけ好きじゃない。
むしろ嫌いだ。
人のことなんて利用するものとしか思っていない、人でなし。

けれど、その才能があるからなんだって許せる。
だから先輩の人格はどうでもいい。
ただ、その作品に触れていられたらいい。
それだけだ。

そうだ。
そのはずだ。

『おかえり』

なのに、その言葉が、ずっとずっと胸に突き刺さっている。
きっと、言った本人にとっては、大した意味を持たない言葉。
何気ない、挨拶。
おはよう、とか、おやすみ、とかそう言ったものと同じなのだろう。
いつまでも気にしている俺が、変なんだ。
分かっている。
分かっているのに、かき乱される。

あの日は先輩が嫌に機嫌が良くて、一緒に料理なんてして、他愛のない話をした。
それでふとした瞬間に先輩が、珍しく、あどけなく笑った。
なぜか、どうしようもなく触れたくなった。
初めて、自分から先輩を誘った。

自分から先輩に触れることなんて、なかった。
自分からセックスしたくなることなんて、なかった。
面倒だけど、先輩がしたいから、する。
そのスタンスだったはずだ。

性欲の解消なんて、オナニーで十分だ。
なんでわざわざ体に負担のかかる、面倒なことをしなくてはならないんだ。
する必要はない。
まあ、やるなら気持ちいい方がいいから積極的にやったけど。
でも、出来ることなら、やりたくない。
そのはずなのに。

それなのに、なぜ俺は、先輩に、触れたのだろう。
なぜ、欲情したんだろう。
なぜ、おかえり、なんて言葉にいつまでも囚われているんだろう。

なぜ、なぜ、なぜ。

「何ぼーっとしてんだ」

いきなり声をかけられて、我に返る。
気が付けば玄関先で物思いに耽っていたようだ。
先輩がいつのまにか帰ってきていた。

「あ、すいません」
「邪魔だ」

慌てて靴を脱ぎ、上がり框に上る。
同じく靴を脱ぐ先輩に、なぜだか焦って声をかける。

「お、おかえりなさい」
「あ?ただいま」

心臓が大きく跳ね上がる。
いや、これは、変わらないことだ。
俺はいつも先輩におかえりなさいって、言っていたはずだ。
何もおかしくない。
おかしくないのに、落ち着かない。
喉が詰まって、手の平に汗を掻く。

「あ、夕メシ食いますか?」

動揺している自分の心を無理矢理誤魔化すように、いつも通りに話しかける。
先輩はスタスタと俺を置いて自室に向かう。

「いらない。出かける」
「分かりました」

落ち着け。
そうだ、何もおかしくない。
いつも通りだ。
そうだ、これでいい。

「ああ、ほら」

先輩が階段の前で一旦立ち止り、背負っていたバッグから一冊の本を取り出す。
振り返って差し出されたので、駆け寄りそれを受け取る。

「ヤン・ファーブル?」

それは行きたいと思っていた美術館の特別展示のパンフレット。
遠方だったので、諦めたのだ。

「お前エグいの好きだよなあ。この前知り合いが行くつってたからな」
「え」
「今日ようやく受け取れた」

それだけ言って、先輩はさっさと階段を上っていってしまった。
残されたのは俺と、俺の手の中のパンフレット。

「………」

俺は先輩に、見たいと言っただろうか。
いや、言ったんだとしても、先輩が、覚えていて、なおかつ、知人に、頼んでいてくれたのか。
違う。
嘘だ。
ただ単に、手に入っただけ。
そのはずだ。
先輩が、俺のためになんて、動くはずがない。
ただ、たまたまだ。
そう、たまたまだ。

くしゃりと音がして、パンフレットを持つ手に力が入っていたことに気付いた。
慌てて手を離してしまい、廊下に薄い本が軽い音を立てて落ちる。

「あ」

急いでしゃがんで、拾い上げる。
開かれたページに掲載されているグロテスクな写真が、今の自分のぐちゃぐちゃな心境によく合っていた。



***




ここ最近、落ち着かない。
先輩は嫌になるほど、いつも通り。
それなのに、俺だけが一人馬鹿みたいに混乱している。

「………耕介さん」

自室で耕介さんの今までの手紙を取り出して、その中に埋もれる。
耕介さんの文字に囲まれて、ようやく少し安心する。
親愛のこもったその文章を読みながら、彼の人を思う。
どこまでも優しく笑う、穏やかで緩やかな川のような人。

『私の大切な守君の世界が、色彩に溢れ輝かしいものであることを祈ります』

耕介さんの手紙は、いつもその文言で締められる。
やや太めの、温かさの滲む、ゆったりとした字。

会いたい。

手紙に顔を埋め、耕介さんの匂いを思い出すように嗅ぐ。
かすかに薫る優しいお香の匂いは、あの人の人柄そのものだ。

会いたい。
会いたい会いたい会いたい。
この前会ったのは、もう10カ月も前だ。
会いたい。
声を聞きたい。
顔を見たい。

もうすぐ会える。
でも今すぐ会いたい。

正月しか帰ってはいけないと言われているが、会いたい。
会って頭を撫でて欲しい。
名前を呼んでほしい。

大丈夫だよ、って言ってほしい。
私の大切な守君と言ってほしい。
おかえりなさいって言ってほしい。

俺が帰るのは、あの人のところだけだ。
ただ、あそこに帰りたいのだ。
帰る場所は、あそこだけでいいんだ。

「俺が帰るのは、ここじゃない」

ここじゃないんだ。
ここは、他人の家。
ここはただのすぐに去るべき仮宿。

「ここは、俺の家じゃない」

おかえり、なんて言わないで。
優しさなんて見せないで。

俺の言葉なんて聞かないで。
俺の意志なんて、気にしないで。
俺を物のように扱って。
俺はただの奴隷でいいんです。
むしろものでいいんです。

トントンと、階段を上る音がする。
なんとか普段通りに接しているが、先輩の顔を見るたびに怖くて苦しくて逃げ出したくなる。
落ち着け。
落ち着け落ち着け。
とち狂うな。
ここは、俺がいるべき場所じゃない。
俺が帰るのは、耕介さんが待つ、あの家だけ。

部屋の片隅にある、先輩の作品。
契約の時や誕生日に貰った、俺のなによりも大切なもの。

何度見ても見飽きない、いつだって感情が揺すぶられる、惹かれてやまないもの。
作品が、好きなのだ。
だからこそ、なんでもするのだ。
あの人なんて、どうでもいいんだ。

自室に行くかと思われた足音が、俺の自室の前で止まり心臓が跳ね上がる。
先輩はいつでも勝手に俺の部屋に入ってくる。
今日も止める暇なくドアは勝手に開かれる。
普段は何も感じていなかったが、今日は嫌に苦々しく感じた。

「………先輩」
「何してんだ、お前」

部屋の真ん中で手紙に埋もれながら横たわっていた俺に、先輩が眉を顰める。
とても不機嫌そうに目を細める。

「またその手紙見てたのか」
「はい」

先輩はきゅっと片眉を器用に上げると、そのまま部屋の中に入ってきた。
手紙が踏みつけられるのに文句を言う暇なく、横たわる俺に圧し掛かってくる。
どうやら、発情しているらしい。

「んっ」

仰向けられて、口を塞がれて、手が服の中に素早く入ってくる。
いつもよりずっと性急で乱暴な手。
それでも先輩の手に触れられると、嫌でも体温が上がってくる。

「あっ」

胸の尖りをなぞられてびくりと腰が跳ねる。
下半身がどんどん重くなっていく。
脳みそが熱で溶けて行くように、頭にもやがかかっていく。
けれど。

「………すいません、嫌です」
「あ?」
「したくないです」

先輩の手をとめて、服から引き出す。
そしてその肩を押しのけた。
それは、俺が示した初めての明確な拒絶、だった。
最初に襲われた時は抵抗はしたが、結局はなしくずしに受け入れた。
それからは不満を言うことはあっても、拒絶を示したことは、ない。

「………」

先輩の顔がみるみる不機嫌そうに歪んでいく。
そりゃそうだろう。
奴隷に歯向かわれてご機嫌なご主人様がいるだろうか。
それでも、今日だけは、このぐちゃぐちゃな心で、先輩を受け入れたくなかった。
少しだけ、落ち着く時間が欲しかった。
そうしたら、いつも通りになれるから。

「駄目です。すいません、今日は無理です」
「なんだ?生理か?」
「今日は危険日なんです」
「はっ。安心しな、孕んだら責任はとってやるよ」

けれど、やっぱり、当たり前のことだが先輩は俺の言葉を聞くはずがない。
のけられた手をまた服の中に滑り込ませる。

「バーカ。お前に決定権なんてある訳ねーだろ」

ただ肌をなぞられるだけで、熱を持っていく体。
もうどうでもいいから、快楽に溺れたくなる。
けれど必死に身をよじる。

「すいません、今日は嫌です」
「なんだ、手紙見て後ろめたくなったのか?」

足で乗りあげられ、腕を掴まれ抵抗を封じられる。
俺の周りには、耕介さんからの大事な手紙がいくつも散らばっている。
後ろめたい。
ああ、そうか、後ろめたいのかもしれない。

「そう、かもしれません」
「ま、それでもやるけどな」

人の言うことなんて聞くことはない傍若無人な人は、さっさと俺のジーンズを外し下着の中にまで手を入れる。
苛立ちそのままの乱暴な手なのに、先輩が触っていると思うと反応を返してしまう。
それがなにより、怖い。

「やめろっ、つってんだろ!」
「うるせーな、ダッチワイフがしゃべってんじゃねーよ。何お前、それとも焦らしてんの?そういうプレイ?毎回サービスありがとう」
「先輩!あっ」

性器を握りつぶすように力をこめられ、身を縮こまらせる。
ひどいことをされているのに、俺のそれは昂ぶったままだ。

「いい加減静かにしてろ。握りつぶすぞ。それともそうされたいのか?ギンギンにおっ勃ってて、随分気持ちよさそうだな。お前痛いの好きだもんな?」

毒が溢れた声と、言葉。
でも、先輩の言葉は全く痛くない。
それは純然たる事実だから。
ただ、先輩の手で触れられるのが、今はひどく怖かった。

楽しむわけでもなく淡々と機械的にただ俺を追い詰めるだけに、その大きくて器用な手が動く。
俺を見下ろす先輩の目は、どこまでも冷たい。

「んっ、は、や、やだ」

どうしても先輩の手に弱い俺は、すぐに限界が来てしまう。
冷めて行く心とは裏腹に、体はどこまでも熱くなっていく。

「よっと」
「あ、ん。せ、先輩?」

先輩が急にイく寸前の俺の体を持ち上げ、後ろ抱きに自分の膝に乗せる。
いくら体が大きいからと言っても、俺も上背はあるので、膝には乗りきらない不安定な格好。
急に放り出されて、体が疼く。
言葉では拒絶しても、体は解放を求めて熱くなっている。

「せんぱ、い?」

何をされるのかと思って後ろを振り向こうとするが、その前にまた手の動きが再開される。
俺の体を知り尽くしている先輩は的確に俺を追い詰めて行く。
再び与えられた快感に、身を委ねようとする。
そして、先輩が何をしようとしているのかを、知る。

「せ、せんぱい、やだ!やだ!」

このままイったら、俺の精液は耕介さんの手紙に散らばるだろう。
そして先輩は、それをしようとしているのだ。
くすくすと後ろから聞こえる笑い声が、耳元をくすぐる。

「イケよ。気持ちよくザーメン飛ばしちまいな」
「や、やだ!嫌だ!!」
「黙ってな、淫乱。いつもケツにつっこまれてよがってるくせに今更純粋ぶるんじゃねーよ」

暴れて逃れようとするが、一際強く、性器に爪を立てられ、擦られる。
片方の手で、乳首をつねられる。
痛みを、それすら快感と認識して、馴れた体が勝手に上りつめて行く。

「ほら、イけよ」
「あ、ああ!!」

混乱する頭と乖離していく、体。
背骨が折れるくらいのけぞって、頭が真っ白になる。
パタパタと音がして、畳と、その上に散らばっている手紙に、俺の汚らしい体液が、落ちていく。
大事な大事な、優しさのかたまりが、汚れた。

「あ………」

いつのまにか、頬が濡れていた。
体はまだイった後の快感で、震えている。
先輩が腹をなぞると、一際大きく震えてしまい、また性器が反応していく。

「オナホールのくせに、ご主人様に逆らってんじゃねえよ」
「……っ」

背中を押され畳の上に伏せると、獣のような格好で尻を突き出させられる。
おざなりにローションをかけられて、中に指が入ってくる。
先輩がベルトを外す音が、嫌に大きく響いた。

「………」

ねえ、先輩。
あんた、本当に最低な人です。

ああ、でもほっとするんです、先輩。
もっともっとひどくしてください。

俺の意志なんて無視してください。
俺を道具のように扱ってください。

あなたがひどい人であればあるほど、俺は心の底から安心できるんです。
乱暴にされればされるほど、嬉しくなれる。

帰るところは、一つだけでいい。
だから、先輩。

頼むから、ひどい人でいてください。
そのまま最低でいてください。

じゃないと、俺は、息もできない。





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