聞かれて、ぼんやりとしていた頭を回転させて考える。
この人達と、永遠に縁を切る。
二度と顔を合わせることがない。

「………」

隣の先輩をもう一度ちらりと見上げる。
先輩は相変わらず余裕に満ちた表情で悠然と笑っていた。
よく馴染んだ人を小馬鹿にするような笑顔に、俺も自然と笑い返す。

「はい、問題ありません」

過去に、俺には家族がいた。

「いいのか?」
「はい」

俺の現在、俺の未来。
俺の大切な人、俺に必要な人、俺が愛しい人達。

「いりません」

俺には、家族は、もうこれからは必要ない。
俺の現在にも、未来にも、この人達には必要ない。
俺の周りに、この人達はいるスペースは、どこにもない。

「俺はこの人達は、いりません。二度と顔も見たくないです」

言葉にすると、自分の中の感情がはっきりと形を持っていく。
そう、俺には、この人達は、必要ない。
もう二度と会いたくもない。

「こんなみすぼらしい人達なんて、俺には不要です」

誰かの息の呑む音が聞こえた。
母の声だろうか、和樹の声だろうか。
どっちでもいい。
こんなちっぽけでみすぼらしい人間なんて、俺に人生には不要だ。

「俺には、家族は、いません」

俺に必要なのは、先輩と耕介さん。
温かく受け止めてくれる人達、楽しい友人達。
これからも、きっと、大事な人達は増えて行く。
俺の周りは温かさと色彩に満ちている。
世界は広く、彩り豊かで美しい。
黒く濁った染みは上塗りして、覆い隠してしまおう。
決して消えはしないけれど、それもまた、鮮やかな色を生み出すための下地。
忘れはしない。
けれど、もう、その色を残しておくことはない。

「俺は、大切な人達がいれば、それでいい」

大丈夫だよ、耕介さん。
俺はもうこれ以上、色を忘れたりしないから。

「それじゃ、さっさと帰るぞ。こんな豚小屋にいたら、匂いがうつる」
「はい」

先輩は一つ笑って立ち上がり、俺もゆっくりとそれに続いた。
居間を出て行く俺達に、黒幡の家の人達は誰一人として声をかけない。
まだ自失状態を脱していないようだった。

玄関先まで来て、靴を履こうとした時に、何か二階から音がした。
パタンと言う音の、その後にパタパタと足音が響く。

「ママ、お客さん帰ったの!?」

明るくあどけない声が暗い家の中に響き、自然に顔を上げる。
階段の上には、こちらを笑顔で見下ろす小さな女の子の姿があった。
ふわふわの肩までの髪に、可愛らしいスカートとトレーナー。

「あ、お客さん?」

不器用に小さな体で急な階段を下りてくる女の子には見覚えがあった。
大きく両手を広げ抱っこをせがむように笑った、無邪気な少女の写真。
実際に見ると、思ったよりも母の面差を受け継いでいた。

「お兄ちゃんだあれ?」

後三段というところで、俺達を見つめ、少女は首を傾げる。
好奇心と親しさに、大きな目をキラキラとさせている。
警戒心なんて一切ない、汚いことなんて何も知らないかのような、無垢な存在。

「へえ、あのチビが下の妹か」
「………」

先輩の言葉に、小さく頷く。
そう、あれが、和樹が教えてくれた、この家に新しく生まれた命。

「愛!」

そう、愛という名の、少女。
母と義父の、娘。

「愛、駄目よ!下がってなさい!」
「愛、部屋に行ってろ!」
「え、え?」

愛が下に降りてきたのに気付いたのか、義母と和樹が血相を変えて居間から出てくる。
俺達からかばうように階段の前に立ちはだかる。
そして恐れに満ちた目で、俺達を睨みつけてきた。

「………」

先輩がその視線を受けて、またにっこりと穏やかに笑う。
何考えてるか分かった気がする。

「そう言えば俺、家族全員で土下座って言いましたっけ?」
「………っ」

想像通りの言葉に、想像通りに青くなる黒幡家の面々。
いつの間にか義父まで出てきて、俺達に向かって頭を下げる。

「やめてください!すいません、お願いします!あの子だけは!」
「頼む、愛は、関係ない!」
「もう、これ以上はやめてくれ!あの子は何も知らないんだ!」

ああ、またなんだか安っぽいメロドラマのような展開だ。
だんだん自分でも悪役の気分になってくる。
テレビの前のお茶の間では、一体どちらが悪として見えるのだろう。

「すいません、あの子だけは!」

母が玄関先の俺達の前まで来て、土下座して頭を下げる。
髪を振り乱して、惨めに哀れっぽく何度も頭を下げる。
テンションが上りつめている母を見ていると、こちらのテンションはなんだか下がってくる。

「そういう卑屈な態度取られると、余計にやりたくなるのが人情だよなあ」
「否定はしません」

先輩がにやりと笑って言い放ち、俺はそれに同意した。
途端に余計に顔色を青くする黒幡家。

「頼む!悪かった!やめてくれ!」

特に和樹が酷く、自分の妹を抱きしめながら泣き叫ばんばかりに謝罪する。
先輩は呆れて眉をしかめながら、肩をすくめた。

「大げさだな。別に土下座ぐらい死ぬもんじゃねーだろ」
「そうですね。殴られる訳でもないですし」

まあ、でも、無理矢理屈服させられる心の傷と、体の傷、どちらがより痛みを感じるだろう。
どちらも痛いだろうが、きっと長引くのは心の方だ。

「ママ、パパ?お兄ちゃん?どうしたの?どうしたの?どこか痛いの?」

母と兄の普段とは違う悲壮な様子に、兄の腕の中で幼い妹はおろおろと辺りを見渡す。
純粋で稚い声と言葉には、さすがに罪悪感を覚える。

「どうする?」

先輩が俺に向かって聞いてきた。
俺に判断を委ねてくれるらしい。

「………」

少しだけ考えて、俺はゆっくりと少女に近づく。
和樹は怯えたようにますます妹を抱きしめる。

「お兄ちゃん、痛いよ」

妹は嫌がって身じろぐが、和樹が離すことはない。
俺から守ろうと、必死になって腕に閉じ込める。
大事な大事な宝物だと、一目で分かる真摯さで。

「………」

こいつにも、こんな風に大切にするものが、出来たのか。
俺の大切なものは、皆こいつに壊され、奪われた。
こいつの前で、大切なものを壊してやったらどうするだろう、なんて昔よく考えたっけ。

「その子が、お前は大切なんだな」
「………っ」

息を飲む和樹を無視して、俺は少女に視線を合わせるように座り込む。
義父も母も動くことはない。

「………愛ちゃん?」
「………お兄ちゃん、誰?」

俺と先輩が、家族の態度の原因というのは分かっているのか不審そう目で俺を見る。
その警戒心いっぱいな様子が子猫のようで愛らしい。
俺は疑問に答えずに、聞き返す。

「パパとママとお兄ちゃんのこと、好き?」

少女は目をパチパチと瞬かせ、それでも小さく頷いた。

「………うん、好き」
「優しい?」
「………うん」
「そう」

俺が頷くと、少女は俺の反応が不満だったのか顔を赤らめる。
そして必死で説明してくれる。

「ママはね、たまに怒るの。でもね、美味しいおやつ作ってくれるの。お兄ちゃんは意地悪だけど、遊んでくれるよ。パパはお仕事忙しいけど、遊園地連れて行ってくれるの。愛、パパとママとお兄ちゃん、大好き」
「………そう」

その言葉には、どこにも陰りはなかった。
可愛らしいえくぼは、純粋な気持ちを伝えてくる。
この人達は、俺のいないところで、家族として慈しみあっていたらしい。
本当に、俺がいなくなってから、この人達は真実、家族になれたのだ。
それなら、もう、それでいい。

愛。
あどけない声、小さな手、無邪気な心。
その名の通り、愛されるために生まれてきた存在。
この子は、これからも愛されていくのだ。

「お兄ちゃん、どこか痛い?」
「………ううん」

俺は気付かずに顔をしかめたのか、少女が心配そうに顔を曇らせる。
優しい、無邪気な子。
柔らかそうな髪を撫でたくなったが、その衝動を振り払う。

「俺達は、パパとママとお兄ちゃんを苛める悪者だよ」

この子は、甘いものが好きだったのだろうか。
アレルギーなんかはあったのだろうか。
クッキーやケーキをあげたら、喜んだのだろうか。
けれどもうそのどれも、知ることはないし、知る必要はない。

「もう会うことはないね。それじゃ、バイバイ」

俺は、もう、この人達と交差することはない。
この少女とも、赤の他人。
俺には、家族はいない。

「………ばいばい、お兄ちゃん」

少女が振る小さな手が、俺の最後の最後に残った、未練の糸を断ち切る。
さようなら、お義父さん、お母さん、和樹、愛。
俺の家族だった人達。
家族になれたかもしれない少女。
これからはもう、会うことはない人達。

「行きましょう、先輩」

先輩が、黙って俺に手を差し伸べる。
いまだ包帯を巻かれた、傷だらけの手をしっかりと握りしめる。

そう、俺に必要なのは、この愛しい手。


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