薄暗く冷たい家から出ると、外はそろそろ夕暮れになろうとするところだった。 手をつないだまま、駐車場まで二人で歩く。 時折通りすがる人が俺達を見てぎょっとした顔をしていくが、あまり気にならない。 どうせ、二度と来ることのない場所だ。 「………ところで、あの金ってどこから持ってきたんですか。空口座ってことはないですよね」 さっきのやりとりは実は詐欺まがいで、訴えられたらどうしようとか、ちょっと思う。 一応書面もあるし、金を渡さないと俺達の方がまずい立場じゃないだろうか。 先輩はそういうことはしないと思うけれど。 いや、しかねないのか。 どっちもありえそうだ。 「するか、そんなこと」 けれど先輩はこちらを見ないまま、俺の考えを否定してくれた。 その言葉に心から安堵する。 さすがにこれで犯罪者になるのは馬鹿馬鹿しすぎる。 「じゃあ」 それならあの金はどこから、持ってきたのだろう。 確かに先輩はパトロンが多いし、作品も高値で売れるようになってきている。 それでもあの大金は右から左に出せるものではないだろう。 「三分の一はお前の保護者、三分の一は俺の懐、三分の一は、妖怪ババアからの融資」 「………」 耕介さんと、先輩と、静子さんからの、お金。 ああ、俺はまた、この人達に迷惑をかけたのか。 あんな大金と、引き換えにしてもらってしまったのか。 「………俺、そんな価値、ないです」 あんな大金をかけてもらえるような価値は、俺のどこにもありはしない。 自虐的になっているとかではなく、客観的に見て、そこまでの価値はない。 長い時間をかけたのなら返せるだろうけれど、この人達がその金を受け取ってくれるとも思えない。 勿論返すために努力しようと思うが、いつになるかは分からない。 「アホか」 先輩は、すげなく俺の言葉を切り捨てる。 相変わらず前を向いたまま、こちらを見ることはない。 「いくら馬鹿の変態でも、俺の作品と俺の手と引き換えだ。安売りすんな、ボケ」 そして、何気なく、本当になんでもなくそんなことを言うのだ。 どうしてこの人は、その一言一仕草で、どうしようもなく俺を惹きつけるのだろう。 俺の心を無理矢理わし掴み、振り回し、奪う。 「………それなら、安すぎますね」 「じゃあ間を取って、これくらい満足しとけ」 それでもあんな奴らに、支払うべきではない大金。 俺が寄生されるのならまだしも、耕介さんや先輩や静子さんに迷惑をかける道理はどこにもない。 「でも、きっと、静子さんからは、また厳しい条件出されたんでしょう。それに、先輩がためてきた金、なんて………耕介さんだって………。そんな大事な金、あの人達にあげるなんて」 静子さんがタダで先輩に融資してくれるとは思えない。 18歳の子供を身一つで放り出した人だ。 きっと、先輩は何か相応しい対価を払うのだろう。 こんな俺のために、自由な先輩の行動を縛ることになるのは、耐えられない。 それも、あんな奴らが原因で。 「あんな金、あいつらにあげる必要なんて、なかった」 「アホか」 先輩はようやくこちらを向いて、つないでいた手を振り払う。 そしてその手で、俺の頭を思い切りはたいた。 「って」 「誰があいつらにやったよ」 心底呆れたようなため息をついて、俺を見下した。 顎を持ち上げ、先輩によく似合う傲岸不遜な表情を浮かべる。 「え」 「お前もあいつらも、どこまで頭悪いんだよ。金をやるなんて一言も言ってねーだろ。貸したんだよ、あの金は。借金」 「でも、だって、無利子で」 無利子で、貸すって、言っていた先輩。 あれ、でもそういえば、あげるなんてことは一つも言っていない。 でもそれは、税金対策って言ってたし。 「ばーか」 先輩はにやりと口の端を持ち上げる。 そして脇に抱えていた書類袋から、先ほどの書類を取り出し俺に突きだす。 「よく見ろ。無利子とは書いてあるけど、無期限とはどこにも書いてないぜ?」 俺はただ驚いて、突きつけられた紙きれを上から下まで視線を滑らす。 そして言葉通り、その長い文章のどこにも無期限とは書いてないことを確かめる。 「ついでに言えば、条件破った場合は返却分に慰謝料プラス。ま、あの家の資産価値からして、家を売ってトントンか負債が残るか、ぐらいか」 冷静に思考を巡らせる先輩は、どこから見ても悪役そのものだ。 物語にありがちな、健気な主人公を徹底的に追いつめ痛めつける、悪役。 それからもう一度俺の額を軽く小突く。 「どうせああいうのは学習しないんだよ。今回のことだってあいつらは自分達の都合のいいように記憶を塗り替えて悲劇の主人公の美しい戦いにするだろ。お前は悪役。あいつらの中で、お前は一生奴隷。人間じゃねえの。変更なし。格上げなし。だから対等な契約なんてもんはなし。お前は奴隷だからな、約束なんてもんはあってないようなもんだ。この前と今回で、味をしめてるしな。また何かあったら、ノコノコあほ面さげて来るだろ」 ぺらぺらと、3枚ほどの書類を振って笑う。 俺は頭が真っ白で、何も答えることが出来ない。 「いつでもあいつらに追い込みかけられるぜ。この紙きれで、四人の人間の人生狂わせられる」 「………」 「人の話はよく聞きなさいって教訓だな。お前も覚えておけよ」 そして書類でまた頭をはたかれた。 どこまでも先輩らしい言葉に、申し訳なさと喜びとおかしみと、なんだか訳の分からない感情が胸を突き上げる。 苦しい。 胸が熱くて、痛くて、苦しい。 「………もう」 「あ?」 「あんたの外道さには、敵いません」 「敵う気だったのか?」 「いいえ」 胸と同じように熱くなった目と頭でぼんやりとしながら、俺は首を横に振る。 どんなに抵抗しようと、この人を俺に惹きつけようと思っても、結局は俺が惹きつけられて屈服させられる。 「ま、コウスケさんは金受け取らねーだろうけど、三分の二は実質俺に出資だ。お前は俺に金で買われたんだよ。今まで以上に尽くせよ。お前は俺のモノなんだからな」 そう言い置いて先輩はまた歩き出す。 俺はその背中を見ながら、続いて歩く。 作品と手と引き換えに、俺自身を差し出した。 その上金で買われたら、俺はもうこの人から逃げ出すことすらできない。 指の先の爪も、髪の毛一本すらも残さず捧げて、それでも足りない。 全然見合うものを返せない。 「さて、と。あのじじいのところ行くぞ」 すぐにコインパーキングに着いて、先輩が清算を済ませる。 運転席に回ろうとする先輩を呼びとめる。 「………これから、耕介さんのところ行くんですか?」 「スポンサーだしな。お前もスポンサーへの義務ぐらい果たせ」 それは、耕介さん達に和樹達のことを黙っていたことを言っているのだろう。 自分は利益にならない場合は義務も何もかも放り出す癖に、なんて思ったけど、言ってることはもっともだ。 耕介さんには、全てを話さないといけない。 「ちょっと待っててください」 先輩が車に入り込むのを制止して、俺はバッグから携帯を取り出す。 そして久しぶりに見る番号を呼び出す。 ずっと電話したかった。 でも、一回話したら、隠しごとなんて絶対出来ないから、怖くて電話出来なかったのだ。 「………」 先輩が車に背を預けて、俺の行動を見ている。 何回か電信音が鳴った後で、コール音が途切れる。 『………守君かい?』 懐かしい、温かい、優しい、大好きな声。 聞いただけで涙が溢れそうなほど、安心した。 張り詰めていた心が、ゆるゆるとほどけて行く。 「………耕介さん」 『………』 耕介さんは、電話の向こうで小さくため息をついた。 やっぱり、怒っているのだろう。 俺にどこまでも甘い保護者は、俺の行動を心配して、それゆえに、怒っているのだろう。 昔から変わらず、ずっとずっと俺を守り導いてくれた人。 『守君、何か私に言うことは』 感情を押し殺したような、耕介さんらしくない平坦な声。 けれど、耕介さんの声を聞いた途端、言おうと思っていた謝罪の声も用件も全て吹っ飛んだ。 「好きです」 『は?』 耕介さんは、予想外だったのか、びっくりしたような声を上げる。 でも、想いは溢れ、漏れだし、止まらない。 「好きです。大好きです。ありがとうありがとうありがとう、大好き。耕介さん、大好き、好きです。ありがとう。大好き。愛してます」 『ま、守君?』 昔も、今も、そしてたった少し前も、俺はずっとこの人に守られている。 俺を人以下の奴隷から救いあげ、守り、想いをくれて、人間にしてくれて、世界を見せてくれた。 俺は、沢山の人に想いをもらって、色を貰って、ここにいる。 そして、それを最初にくれた、耕介さん。 「本当に好きです。耕介さんが、大好きです。ありがとう。大好きなんです」 『勿論、私も君を愛している』 「うん。好き、大好き。愛してる」 『私もだよ。大好きだ』 「うん。ありがとう。大好き」 大好きっていくら言っても、言い足りない。 返す方法すら分からない、大きな恩。 声を聞くだけで懐かしくて泣きだしたくなる存在。 そんな存在を得ることが出来ただけでも、俺はどれだけ幸運なんだろう。 俺は満たされている。 俺は愛されている。 こんなにも愛されている。 「あのね、耕介さん。色々と、ごめんね。明日、ちゃんと説明するから。明日、家に帰るね。謝って、ありがとうって言って、愛してるって言うね」 『守君、どうしたんだい。今日帰るんじゃなかったのかい?』 「あのね、ごめん。どうしても外せない用事があって、明日、家に帰る。待っててね。ごめんね。ありがとう。大好き」 『………うん、分かった。じゃあ、気をつけてきなさい。大丈夫だね?』 「うん。大丈夫。もう、大丈夫だよ」 『分かった。待ってるよ』 『うん、ありがとう』 声を聞いたら今すぐ耕介さんに会いたくなったが、それ以上の感情が胸を焦がしている。 俺は携帯を切って鞄に戻すと、俺の前で待っていてくれた先輩を見上げる。 「先輩」 「なんだ?」 首を傾げた先輩の頭を両手で引き寄せ、その唇を奪う。 久しぶりに重ねた唇が熱くて、火傷をしそうだ。 「んっ」 唇の熱が、全身に巡り、体を焼く。 腕を首にまわし更に先輩の堅い体を引き寄せる。 先輩の匂いが鼻孔をくすぐって、脳みそが溶けていってしまいそう。 たくましい体の感触に、ゾクゾクと背筋に痺れるような電流が走る。 でも、足りない。 こんなんじゃ足りない。 「ふ、ぅ」 何もしてくれない先輩の口の中に舌を無理矢理ねじ込む。 動かない厚ぼったい舌を引きずり出して噛みつき絡みつき味わう。 口の中に溢れる唾液を啜り飲む。 ただ愛撫しているだけで、いや、触れているだけで俺の体は快感にうち震える。 「せん、ぱい」 先輩の口の中を、深く深く味わう。 体を引き寄せしがみつく。 もっともっともっと欲しい。 先輩が欲しい。 全部欲しい。 その手も、その目も、この体に流れる血の一滴すら、離したくない。 指の先の爪も、髪の毛一本すらも残さず捧げて、それでも足りない。 全然見合うものを返せない。 だって、今でも俺は、先輩の全てを奪い尽くそうとしている。 「ん、はぁ」 まだ全然足りないけれど、一旦体を離す。 口から伝ったどちらのものとも分からぬ唾液に、もったいないと思った。 先輩の唾液だったら、全部全部、俺が飲みたい。 何一つ自分からは動かなかった先輩は、俺を観察するようにじっと見ている。 その強い視線に、濡れた唇に、体温は益々上昇していく。 「我慢、できません。お願いします、ヤりたいです。つっこんでください。ぐちゃぐちゃにしてください」 首に絡みついたまま、俺は先輩を精一杯その気にさせようとする。 教え込まれた言葉で手管で、目の前の傲慢な人を誘惑する。 言葉で誘い、反応を示した体を押し付け、潤む目で見つめる。 「あんたの体を全部舐めたい。愛撫して感じる顔が見たい。唾液を飲み干したい。あんたのザーメンに一晩中まみれたい」 足りない足りない足りない。 ここでもいいから、先輩が欲しい。 耕介さんに会うのを遅らせてでも、今すぐに先輩が欲しい。 俺の切羽詰まった様子がよほど滑稽だったのか、先輩が呆れたように肩をすくめる。 「ここまで働いたのに、まだ働かせる気か、お前は」 「お願いします。俺の中をあんたでいっぱいにして」 「もっと気の効いた誘い文句でも言ってみろ」 試すような言葉。 からかうような目。 その全てが俺を惹きつけ放さない。 ああ、もう認めよう。 全面降伏だ。 本当はとっくの昔に分かっていたんだ。 この人に出会った時から、それは始まっていた。 「………好きです、先輩」 あんたと出会ったその時に、俺は心奪われた。 もう一人では立っていられない。 「俺はあんたが、好きです」 まっすぐに見上げた先の先輩は、俺の言葉に悠然と笑った。 いつものように、嫌みたっぷりに、人を馬鹿にしたように笑う。 「上出来だ」 先輩の手が、俺の腰を引き寄せる。 落ちてくる唇に、俺は心から酔いしれる。 これが恋だと言うなら、それはなんて恐ろしいもの。 これが恋なら、俺は恋をしてよかった。 |