「う、あっ、ぁぁ、あ」 嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ。 嫌だ。 やめてくれ。 こんなの、ない。 そんなの、嫌だ。 「相変わらずいい子になるのが好きだね、兄さんは」 天が哀れそうに眉を潜めて笑う。 言い方は柔らかいが、その声は冷たい。 言いたいことは分かっている。 結局俺は何もしていない。 ただ力尽きてここでくたばっている。 抗うことも、自ら手を汚すことも、自らをささげることも、何一つ選べない。 ただこうして後悔しているふりをして、力のなさを嘆いて、そして時を待つだけ。 全てが終わるそのときを待っているだけ。 天が、全てを終わらせてくれるのを待つだけだ。 「う………」 「ああ、泣いちゃった。ほら、泣いちゃだめだよ、兄さん。もう高校生なんだから」 「……あ、く」 天の長い指が、目元をぬぐう。 片方の手には、抜けがらの平田をつかんだまま。 泣くことも、天を責めることになるのだろうか。 俺は何もしないくせに、全てを始末してくれる弟を、ただ恨む。 そんな自分が、昔から嫌いだ。 そして、それを何度も俺に付きつける天が、大嫌いだ。 「さて、嫌な仕事はさっさとすませようか。俺、ご飯もまだなんだよ」 いまだに天のズボンを握りしめていた俺の手は、軽く蹴りつけられて払われる。 痛みは、感じない。 もう、何も感じない。 ただ、疲れた。 何もできない自分に、疲れ果てる。 どうして、俺のやることは、いつもこうして、裏目に出るのだろう。 いつもいつも、最悪の結果を招く。 それなのに懲りずにこうして、後悔を呼ぶ。 涙が止まらない。 平田が可哀そうで? 自分が情けなくて? 弟に手を汚させるのが、悔しくて? きっと、違う。 そんな自分が可哀そうで。 それで、俺は泣く。 ああ、最低だ。 天は平田を引きずって、廊下の開いたところに転がす。 そして、制服の内ポケットから懐剣を取り出し、自分の指を傷つけた。 「宮守の血を捧げ、この地に楔を」 平田の額に簡単な呪を書き、そしてその周りにも少量の血を垂らしていく。 何かを小さくつぶやく。 すると、平田の額と周りから、白い光が立ち上った。 天の白い力が、濃厚に辺りに立ち込める。 先ほど俺が吐き出した黒いものを、いつのまにかいつも使っている玉のストラップに入れたらしい。 大きさも色も様々な水晶の玉が連なっている、一見アクセサリにしか見えない、呪具。 その見かけが気に入って、天はよくそれを使っていた。 玉をいくつかちぎり、平田の口の中につっこむ。 そして、懐剣を振り上げた。 俺は、卑怯にも見ていられなくて目をきつく瞑る。 二回ほど、布を切り裂くような音が聞こえる。 びりびりと皮膚に電気が走るほどに、力が高まる。 天が、何かをつぶやく声が聞こえる。 どんっ! いきなり重力が倍になったように一気に体が重くなった。 呼吸ができないほどのゼリーのような空気がまた漂う。 息が、苦しい。 ねっとりとした悪意が、体に絡みつく。 恐る恐る目を開く。 そこには、平田の姿は、もうなかった。 館の中は、暗闇に満ちている。 「さ、終わったよ。帰ろっか」 ただ、白い力をまとって光輝く、その姿以外、すべて闇に沈んでいた。 天の姿は、闇と相いれず、ただそこにある。 「帰ろ、兄さん」 まだ血の流れている指を舐め、にっこりと笑う、二つ下の弟。 管理者としての冷静な判断、責任、そしてその圧倒的な力。 何一つ、かなわない、大嫌いな弟。 「ああ、そっか。力の供給がまだだったね」 未だ這いつくばっていた俺に気付き、天が近づいてくる。 腕を引っ張られ仰向けに転がされる。 「……う、っ」 「はい、あーん」 そして隣に跪き、今だ血の流れていた左の人差し指と中指を、俺の口の中につっこんだ。 鉄と生臭い匂いのするどろりとした液体が、舌をなぞって喉に流れ込む。 生理的に嫌悪感を感じるえぐい味に、吐き気がした。 「う、ぐ」 「宮守の血の絆に従い、此の者に恵みを」 天が簡略化された呪を唱えると、血を媒介にして白い力が溢れてきた。 もう一度喉に血が滑り込む。 鉄と塩の味。 けれど、今度は舌に甘く感じた。 カラカラに乾いた土に、染みわたる恵みの雨のように、じんわりと俺の体の渇きを癒していく。 「っん、あ」 「おいしい?」 「ん、うく、はぁ」 ごくり、と弟の血液を飲み込む。 その生臭い味は未だに吐き気が伴うのに、渇望していたものに体は歓喜する。 まるで酒に酔ったように、頭の芯が痺れる。 びりびりと軽い電流が走るように、快感に震える。 冷え切っていた体に、指先まで熱がともっていく。 「は、もっ、と」 先ほどまで指一本動かせなかった腕が動く。 何も考えられず、天の白い手を取る。 乳に吸いつく赤ん坊のように、喉を鳴らしてその血を呑む。 「ふふ、おいしそうだね?」 弟の血を必死に飲み込む兄の顔を楽しそうに天が覗き込む。 それも気にせず、ただ俺はその快感に酔う。 白い力が、自分の青と混ざり合う。 どろどろに溶けあう。 溶ける。 気持ちいい。 気持ちいい。 まっしろになる。 「はい、でもここまで」 「あ………」 急にとりあげられて、もの欲しそうな声が出る。 口から指が抜き出されて、思わずそれを追いかける。 けれど天は苦笑して、立ちあがった。 「そろそろ立てるでしょ?残りは家でね。俺、貧血になっちゃうよ」 「………あ」 その言葉で、我に返る。 そして自分のしたことを思い出し、急に羞恥が湧いてくる。 まるで獣のように、血をすする自分が、恥ずかしい。 大嫌いな弟に、すがりつく自分を、認めたくない。 礼も言わずに天から目を逸らす。 体は、だいぶ軽くなっていた。 おそらく三分の一ほど体の力が戻っている。 闇が復活した洋館は、相変わらず重苦しかったけれど最初のときほど圧迫感はなかった。 力を満たせば、隙もなくなる。 そう、わかっていたはずなのに。 じんわりと、罪悪感と後悔が胸を焼く。 そこで、思い出した。 「………さとう、は」 軽くなった上半身を起こし、辺りを見渡す。 お団子の女の子は、眠るように倒れている。 先ほどの平田を思い出し、恐怖に身がすくむ。 「このお姉さん?少し喰われてるけど、大丈夫みたい。最初は体調崩すけど、一月もすれば元通りだよ」 「ほんとに…?」 「やだな、疑うの?」 心外そうに天が頬を膨らませる。 その言葉に、肺の底から空気を絞り出すように溜息をついた。 安心で、腰が抜けそうだ。 「よか、った………」 佐藤だけでも、助かって、よかった。 俺のせいで消える人が、増えなくて、よかった。 安心でまた目尻が潤む。 その俺の様子を見て、天が笑う。 「よかったね。ああ、兄さんがいたおかげで、この人は助かったのかもよ。兄さんが来なかったら、俺もここに来なかった。そうしたら二人して喰われてたかもね」 天が白峰の頭を撫で、佐藤を運ぶように指示する。 白峰はしぶしぶといった様子で、その背に少女を乗せた。 先ほど二人乗せていた背は、今は、一人。 「でも兄さんがいなかったら、この人たちもここに誘い込まれなかったかもしれないけどね」 少しだけ、浮き上がった心は、また叩き落とされる。 そうだ、むしのいい希望にすがるな。 この結果は、俺の未熟さゆえ。 俺の愚かさゆえだ。 忘れるな。 その罪の重さを。 それでも、どんなに後悔しても、俺はここにいて。 平田はいない。 それが、結果だ。 「まあ、それならそれで、また別の人が消えていただけだから、気にしないほうがいいよ。兄さん」 黙り込んだ俺に、天はやっぱり天使のように綺麗に微笑んだ。 |