「へえ、それじゃまた休むんだ」
「うん、金曜日と月曜日」

週末の予定を告げると、藤吉は心配そうに眉を顰めて、でも笑った。
俺を励ますように、眼鏡の奥の目は労わりに満ちている。

「そっか、気をつけていけよ。お前すぐ怪我するから」
「………うん」

その心配が嬉しくて、心がほっこりと温かくなる。
やっぱり俺の変な勘違いなんだ。
こいつが、何か俺を害そうとしているなんて、ありえない。

「藤吉、藤吉、おい!せーちゃん、せーちゃん!」

その時教室の入り口の方から興奮した声が響いた。
藤吉が振り返って、手をひらひらと降る。

「あー、タキ?」

そのまま立ち上がって入口に向かい、声の主と何か話している。
あれは確か藤吉と仲のいい、隣の隣のクラスの滝本っていう奴だ。
一緒にいるのをよく見る。
ちくりと、胸が疼いて、自分でも呆れてしまう。
この前の志藤さんの時もそうだが、俺は独占欲が強いらしい。
初めて出来た友達に、自分より親しい友達がいるのが嫌なようだ。
身の程知らず過ぎる。

「んじゃなー、ありがと、せーちゃん」

どうやら教科書を借りに来たようで、何度かやりとりして藤吉は教科書を渡し、滝本は朗らかに去って行った。
手を振りながら戻ってきた藤吉は、苦笑している。

「せーちゃんって?」
「ん?」
「せーちゃんって、藤吉のこと?」

耳慣れない呼び方なので、不思議に思う。
すると藤吉は呆れた顔でため息をついた。

「宮守、俺の名前覚えてる?」
「え、あ、そうか」

藤吉の名前は、藤吉誠司。
それで、せーちゃんか。
考えてみればすぐわかる話だ。

「宮守、今、俺の名前忘れてただろ」
「あは、は」
「友達甲斐ねーな。ひでーやつ」

ふざけて拳で頭を殴られる。
そういえば中学生の頃も、誠司って呼んでたり、せーちゃんって呼んでたりする奴がいたかも。
あの頃は遠い存在だったし、俺の中で藤吉は藤吉なので忘れていた。

「藤吉って、友達に、せーちゃんって呼ばれてるの?」
「え。ああ、あいつは小学校の頃から付き合いあるんだよ。その頃そう呼ばれてたから」
「………そっか」

小学生の頃の、友達か。
俺にはそんなものはいない。
きっと滝本は、俺よりずっと藤吉のことを知っているのだろう。
あ、やばい、俺すごい気持ち悪いこと考えてる。

「宮守もせーちゃんって呼びたい?」

自分で自分の考えが気持ち悪くて、頭をぶんぶんとふっていると、そんなことを言われた。
慌てて藤吉を見ると、藤吉はなんだか楽しげに笑っている。

「い、いや、ちゃん付けはないだろ!」

今更高校生にもなって男友達をちゃん付けとか痛すぎる。
ちょっと羨ましいとは思うが、そんなこと出来る訳がない。

「じゃあ誠司は?」
「え………」

藤吉は茶化すこともふざけることもなく、楽しげに笑っている。
戸惑う俺へ、更に促す

「ほら、誠司で、三薙」
「あ………」
「いや?」

言葉が出てこなくて、頭を思い切り横にふった。

「じゃあ、ほら」

唇が張り付いてうまく口が開けなかった。
声を出そうとして、喉が引き攣れる感じがする。
だから、出した声は、とてもみっともなかった。

「せ、誠司っ」
「そうそう」

ひっくり返って上擦っていたけれど、藤吉は気にせず満足げに頷いた。
気分を害してはいないようだ。

「せ、誠司」
「せは二個いらないから。あはは、なんか改まると照れるな。恥ずかしい」
「………誠司」
「うん?何、三薙?」

三薙って、佐藤にも呼ばれた。
あの時だってドキドキした。
千津って呼べとも言われたけど、結局呼べてない。
でも、なぜだろう。
今この時の方が、ドキドキする。

「な、名前呼んでもいいのか?」
「どうぞどうぞ。別にそんな大層な名前じゃないし。なんなら様付けしてくれても構わないけど」
「ば、馬鹿じゃねーの」
「あはは、まあいいじゃん、三薙」

俺の緊張を解きほぐすようにふざけて話す藤吉に、なんとかふざけて返す。
でも今きっと、俺、顔が熱いんだろうな。
なんだろう、体中の血がふつふつと沸き立つような感じがする。

「………うん、誠司」

名前呼べるっていうのが、こんなに嬉しいものだと思わなかった。
呼ばれるってのが、こんなに嬉しいものだとは思わなかった。
勿論佐藤にも呼ばれた時は嬉しかった。
でもなぜだろう、今、藤吉との距離がすごく縮まった気がする。

「あんたら何恥ずかしい会話してるの」
「う、うわ!」

いきなり後ろから椅子を蹴られて、慌てて体勢を整える。

「見てるこっちがいたたまれない」
「な、なんだよ!」

振り向くとそこには岡野が呆れた顔で見下ろしていた。
そして、後ろから今度はいい匂いの柔らかいものに抱きつかれた。

「三薙ずるーい!私のことは名前で呼んでくれないくせに!」
「え、だ、だって!」

佐藤は女の子だし、名前の呼び捨てなんて出来ない。
名前を読んでもらえるのは嬉しいのだが、いつでもなんだか緊張してしまう。

「男友達の特権って奴だよ、な、三薙?」
「う、うん」

男友達。
そう思ってはいたけれど、改めて藤吉から言われると胸が熱くなってくる。
藤吉と志藤さんが、俺の男友達だ。
二人きりしかいないけど、二人きりでも、十分満足だ。

「かわいいなあ、宮守君」
「か、かわいいってなんだよ!」

近寄ってきた最後の一人槇が、優しく笑っている。
噛みついても、意に介する様子はない。

「いいよね、同性の友達」
「なんなら槇も誠司って名前で呼んでくれて構わないんだぜ!」
「結構です」
「ひどい!」

本当に槇は、かわいく柔らかい印象で中身はピリリと辛口だ。
二人のやりとりに笑っていると、岡野がもう一度俺の椅子を蹴る。
岡野はかわいいけれど、やっぱりちょっとその暴力的なところは直した方がいい気もする。

「仕事なんだって?」
「う、うん」

腕組みされて見下ろされていると、なんだかびくびくしてしまう。
俺、何もしてないよな。
今日は何もしてないはずだ。

「怪我したらぶん殴る」
「怪我してるのに!?」
「嫌だったら怪我すんな」
「は、はい!」

それ以外の答えなんて許されなさそうだ。
岡野は納得したのかしないのか、鼻を鳴らしてそっぽを向く。
これは、心配してくれた、のかな。
そういえば、岡野のことはちょっと名前で呼んでみたいかもしれない。
緊張しすぎて、無理そうだけど。

「彩もかわいいなあ」

槇がおっとりと笑うと、岡野が槇を睨みつける。
藤吉が俺の腕をぽんと叩く。

「まあ、怪我すんなよ、三薙」
「ありがと、誠司」

やっぱり藤吉は、すごくいい友達だ。
ずっとずっと、いい友達で、いたい。



***




「おー、我が愛しのおとうとくーん!」
「………」

風呂に入って部屋に戻ると、部屋の前で今日も赤ら顔でテンション高く手をぶんぶんと振っている兄の姿があった。
思わず自室だというのに、勢いよく回れ右をしてしまう。

「何逃げようとしてんだ、こら!」

双兄が酔っ払いとは思えない素早さで追いかけてきてホールドされる。

「うわ!臭!酒臭い!」

漂ってくる甘い臭気に吐き気がしてくる。
しかし双兄はがっちりと俺の関節を固めて放してくれない。

「お前、明日から仕事だろ」
「う、うん」
「四天とだっけ」
「そう」

明日から学校を休んでまた出かけることになる。
天とうまくやっていけるか心配だが、仕方ない。
多分前よりは、距離は近づいているはずだ。

「供給したか?」
「あ、今日一兄に頼もうかと」

でも天に供給を頼むのはまだ少し抵抗があるので、一兄にしてもらってからさっさと寝ようと思っていたのだ。
それなのにこんなところで酔っ払いに捕まってしまうとは。

「よし、お兄様がしてやろう!」
「え、酒臭いからやだ!」
「なんだと、おら!」
「痛い痛い痛い!」

拳骨で頭をぐりぐりとされて、涙が出るほどに痛い。
そのまま双兄は俺の体をずるずると引っ張って行く。

「ちょ、ふらふらしてるし!」

しかし細身で、しかも酔っ払いの兄は俺の体を支えきれないのかバランスを崩しながら歩く。
それに釣られて俺まで倒れてしまいそうだ。

「双馬さん、三薙さん、仲良くていいですねえ」

双兄を追いかけてきたのか、熊沢さんが廊下の先にいた。
微笑ましそうに俺たちを見て、目を細めている。
いや、微笑ましい事態ではなくて、俺にとっては結構ピンチなのだが。

「熊沢さん助けて!」
「ご兄弟のささやかな戯れを邪魔することは俺には出来ません」
「え、ちょ」

そう言って熊沢さんは俺と双兄を支えながら、俺の部屋の中に引き摺っていく。
二、三歩双兄と一緒にされるがままに歩くと、まるで荷物のようにベッドに放られてしまう。

「ちょっと!?」
「ではおやすみなさい、お二人とも。三薙さん、明日からお気をつけて」
「熊沢さん!?」

ぱたりとドアが閉まってしまい、俺は次兄と二人きりにされてしまう。
もう逃げられないのか。
双兄がふらふらとしながらベッドの上に座りこみ、俺も前に座らせる。
正面から覗き込む双兄の息が、臭い。

「んじゃ、供給するぞー」
「う、酒臭い」
「我儘いうんじゃありません!」
「くっそ………」

観念するしかないだろう。
まあ、供給はどちらにせよ必要だ。
ここはありがたく受け取るとしよう。

「………あのさ、双兄」
「あ?」
「酒さ、最近本当に飲みすぎだろ。少し控えろよ」
「やかましい!」
「いだ!」

術を組み立て始めたところに、つい口を出してしまうと、頭突きを食らった。
でも首をがっしりと掴まれてるから、逃げることもできない。
仕方なく、もう一度、今度はちょっと踏み込んだことを聞く。

「………なんかあったの?」

双兄が頭を俺の肩に埋める。
ずしりと肩に重みがかかる。

「………俺はさ、本当に意気地なしだよなあ」
「双兄?」
「四天の言うとおりなんだよな。考えるだけなら、誰だって出来る。誰だってしてる」
「なんのこと?」

それはこの前の、四天との会話のことだろうが。
あれを双兄は気にしていたのか。

「………なんでもねえ。ま、とりあえず今は供給だな」
「う、ん」

俺はやっぱり頼りにならないのだろうか。
弟に話すようなことではないのだろうか。
天は何か知っているのだろうか。

ぐるぐる考えても、答えはない。
双兄が術を組み立て始める。
回路が繋がる。

「んっ」

双兄のオレンジ色の力が、入り込んでくる。
明るく賑やかな力の色。
双兄の色。

「………そう、に」

何を苦しんでいるのだろう。
力になることは出来ないかもしれないけれど、教えてくれればいいのに。



***




気がつくと、そこは乳白色の世界だった。
天も地もない、ただ乳白色が続く空間。

「いらっしゃい、三薙!」

そこに、澄んだ、女性にしては低めの声が響く。

「あ、双姉」

白いワンピースを纏った姉が、笑いながらひらひらと手を振っている。
そうか、双兄の夢の中に、入ってしまったのか。
この前のように、迷い込んでしまったのだろうか。

「また入っちゃったの、俺?」
「ふふ、今回は私が会いたくて双馬に連れてきてもらったの」
「あ、そうなんだ」

どちらでもいいけれど、双姉に会えるのは嬉しい。
最近双兄が飲んだくれて近づけないこともあるから、随分久しぶりな気がする。

「会えて嬉しいわ!会いたかった!」
「う、うん、俺も」
「ありがとう!」

双姉も喜んでくれてるみたいで、全身で喜びを表して俺をぎゅっと抱きしめる。
匂いはないはずなのに、ふわりといい匂いがした気がする。
柔らかい体の感触がする。

「だから抱きつかないでよ!」

佐藤も双姉も、どうしてこうやって抱きついてくるんだ。
男として意識されていないのだろうか。
いや、双姉はお姉さんだけど、でもそれでも妙齢の女性に抱きつかれるなんて経験、今までなかったから慣れるものではない。

「いいじゃない。私はずっとこうしたかったんだから」
「で、でも」
「双馬には出来ないし、四天は嫌がるだろうし」

そこで双姉が拗ねたように頬を膨らませて口を尖らせる。
大人の女性の、そんな子供っぽい仕草は、可愛らしくてドキッとする。

「三薙ぐらいは相手してくれないの?」
「う………」

そう言われてしまうと、何も言えなくなってしまう。
まあ、今だって兄達や弟とはやってることだし、変わらないだろうか。
今まで女兄弟なんていなかったから慣れないだけで、兄弟としては普通のことかもしれない。

「うふふ、ありがとう!」

更にぎゅーっと抱きしめられて、頬ずりされる。
やっぱりちょっとなんか、男兄弟とは違う。
拒んだ方がよかっただろうか。

「そ、その、一兄は?一兄はこういうの、どうなの!?」

双姉はようやく体を放してくれて、にっこりと笑う。

「兄さんは、頭を撫でてくれるわ」
「そっか」

一兄は、双姉に優しいのだろう。
それは想像がつく。

「じゃあ、熊沢さんは?」
「えええ!?」

双姉が俺から完全に手を放して、3歩ぐらい後ずさる。
わたわたと焦った様子で周りを見渡し、無意味にパタパタと手を振る。

「な、何を言ってるのよ!何言ってるのよ!亮君は!そんな!」

慌てふためく双姉が可愛くて、つい笑ってしまう。

「いや、だって、お兄さん代わりの幼馴染、でしょ?」
「あ、そ、そうね。うん、そうね」
「かわいいなあ、双姉」
「か、かわいくない!う、うるさいわよ!」

ぺしぺしと手を伸ばして叩いてくる。
ああ、駄目だ、こんなことされてもかわいい。
双姉は本当に、熊沢さんのことになるととんでもなくかわいくなる。

「それで、熊沢さんは?」
「あう。え、えっと、えっとね、亮君はね、亮君もね、頭を撫でてくれたわ」

顔を赤らめて手をもじもじと絡めて俯き加減で答えてくれる。
本当に、熊沢さんのことが好きなのだろう。
恥ずかしそうに、それでも嬉しそうにはにかむ。

「泣いてたらね、慰めてくれて、いいことしたら褒めてくれたの」
「………そっか」

胸がつきん、と痛くなる。
双姉が熊沢さんのことが好きなのは嬉しい。
嬉しいけれど、ちょっと、切ない。

「いいお兄さんだったんだね」
「うん、そうよ!」

こっくりと子供のように大きく頷く。
それでも、その笑顔は眩しくて、明るくて、綺麗だ。

「どんなことして遊んだの?」
「小さい頃は絵を描いたり、おままごとしてくれたり」
「うんうん」

そこではっとしたように、口をつぐむ。

「もー、ここで終わり!」
「えー!」
「これ以上は内緒!お姉さんをからかおうなんて100年早いわよ!」

ぷいっとそっぽを向いてしまった。
これ以上は突っ込まない方がいいだろう。
もっと聞きたかったんだけどな。
でも、双兄は、あまり熊沢さんの話をするのは嬉しくなさそうだったっけ。

「そうだ、この会話、双兄も聞いてるんだよね」
「大丈夫、眠ってもらったわ」
「あ、そうなの?」
「うん。たまには二人きりで話したかったから」

それなら、聞いてみようか。
ちょっと考えてから、やっぱり聞いてみる。

「双兄、やっぱり酒の量が、増えてるみたいなんだけど」
「………そうね」
「何か、あるのかな。心配なんだけど」

双姉は困ったように笑って、ちょっと首を傾げた。

「大丈夫よ。あれは双馬の問題。私も亮君もついてるから、大丈夫」
「………ならいいんだけど」

やっぱり、俺には力になれないのだろうか。
弟だし、年下だし、そもそも頼りないし。

「三薙が頼りないっていう訳じゃないの。あれは双馬の問題だから、双馬が乗り越えなきゃいけない」

俺の顔が曇ったのか分かったのが、双姉が俺の頭を撫でてくれる。
優しい指先が、熱を伝えてくる。

「大丈夫、何があっても私が双馬を守るわ。兄さんも四天も、そして三薙、あなたも」

細く長い腕が、俺をそっと抱きしめる。
ぎゅっとその胸に押しつけるように力を込める。

「みんなみんな守ってあげたい。こうやって抱きしめてあげたい」
「………でも、俺は守られるんじゃなくて、俺が双姉を守るよ」
「………」
「その、出来るかどうかは、分からないけどさ。そういう心意気ってことで。その………」

双姉がびっくりした顔で俺の顔を見下ろす。
そして次の瞬間破顔した。

「きゃー!!!もうかわいいんだから!」
「うわ!だから!」

だからかわいいってなんだ。
どういうことだ。

「ありがとありがと、ありがと、三薙!」

俺の言葉なんて聞いてない双姉がぎゅうぎゅうと俺を抱きしめ頬ずりをする。
まあ、もう、嬉しそうだからいいか。
ちょっと痛いんだけど。

「愛してるわ愛してる。三薙、あなたをずっと愛してるわ」
「え、えっと」

双姉の言葉はストレートで恥ずかしすぎる。
返すことは出来ないけど、でも、嬉しい。

「覚えておいてね、三薙。私は、あなたのためにも、なんだって出来るわ」
「………う、うん」

双姉は、俺が頷くと嬉しそうに声をあげて笑った。





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