「泣かないで、お兄ちゃん」 力が使えなくて、体を自由に動かすことすらできなくて、弟が自分よりもずっと強いのを目の当たりにして。 俺は悔しくて哀しくてもどかしくて、ただ泣いていた。 「だって………、僕は何も出来ない。四天みたいに、強くなれない」 「お兄ちゃんは、強くなることなんて、ないよ」 そうだ、天はそう言っていた。 俺に強くなる必要なんてないと、言ったんだ。 「ほら、お兄ちゃん、こっちにおいでよ」 そして天がその小さな手を俺に差し伸べる。 暗い暗い森の中。 弟は、俺をどこに誘おうとしているのだろう。 「三薙さん」 名前を呼ばれて、うっすらと暗い森の中から引き戻される。 今のはなんだったんだっけ。 また、小さな天を見ていた気がする。 「三薙さん」 「は、い」 今のは夢か。 俺は寝ていたのか。 体に振動を感じて、ここが家の布団ではないことが分かる。 首が痛い。 「三薙さん、起きましたか?」 優しく穏やかな、男性にしては高めの声。 そうだ、これは志藤さんの声だ。 俺は、そういえば志藤さんと一緒に仕事に来たんだった。 「あれ、俺寝てました!?すいません!」 慌てて体を起こす。 うまく支えられていなかったせいか、首が痛い。 どうやら助手席で眠ってしまっていたらしい。 「いえ、大丈夫ですよ。それより、外をご覧ください」 それを責めることはせず、志藤さんが穏やかに外を見ることを促す。 恥ずかしくなって顔が熱いが、その言葉に窓の外に視線を向ける。 「わ………」 どうやら車は今、山道を走っているらしく、ガードレールの向こうの景色を眼下に一望出来た。 切りひらかれた山の裾に、きらきらと光を浴びて光り輝いているもの。 思わず窓に張り付くようにして、身を乗り出す。 「すごい!あれって、湖ですか!」 ぽっかりと空いた山の中の空間。 まるで綺麗な緑に器に入れられた宝石のような、大きな水の塊が横たわっていた。 「はい、たつみ湖と言うそうです」 「湖かあ!あ、見えなくなっちゃった」 生い茂る林が遮り、湖が視界から消えてしまった。 落胆していると、志藤さんが笑いを含んだ声でいった。 「先に展望ポイントがあるみたいですね。少し停車してもよろしいでしょうか、四天さん」 「………いいですよ」 「ありがとうございます」 天の声が投げやりに答えた。 後ろを振り向くと天は起きていて、つまらなそうにあくびをかみ殺している。 いつのまに起きていたんだろう。 ていうか俺はいつのまに寝ていたんだ。 そのまましばらく走ったところで林道が切れて車を停車するスペースがあった。 駐車スペースの奥には20段もなさそうな階段があって、その先にうてなのような展望台がある。 「どうぞ、三薙さん」 志藤さんが停車するとともに、車から飛び出す。 駆け足気味に展望台を駆け上がると、そこは先ほどより開けた風景が広がっていた。 「わあ!」 広い空と緑と金色に光る湖の色彩が飛び込んでくる。 冷たい風も樹の匂いが濃厚で気持ちがいい。 「天、天!見ろよ!大きいな!」 「そうだね」 初めて見た湖が綺麗すぎて興奮してしまう。 上擦った声の俺とは裏腹に、天はつまらなそうだ。 天の反応が薄いので、もう一人の同行者に話しかける。 「志藤さん、すごいですね!湖ってあんな大きいんだ!あ、あそこに街、かな、がありますね。あそこが仕事で行く場所ですか?」 「はい、今回の目的地となります」 「小さいですね!玩具見たい。あ、ジオラマぽい。かわいいな。なあ、天、あの大きな家が管理者の家かな。大きいな」 「かもね」 「あ、なんか、湖の淵に社があるな。」 湖にせり出すようにして建っている家は、他の家よりもずっと大きく古めかしそうだった。 そして家の奥、湖にせり出す半島のようなところに、社が設置されている。 位置からして湖を祭る社だろうか。 「三薙さんは湖を見るのは初めてですか?」 「はい!湖って大きいんですね。もっと小さいのかと思った。志藤さんは海見たことありますか?海ってやっぱりもっと大きいんですか?」 勢いこんで後ろを振り向くと、志藤さんは目を細めて俺を見ていた。 なんだかその子供を見るような表情に、急に恥ずかしくなってしまう。 「………ご、ごめんなさい」 「え、どうしてですか?」 「なんか、俺だけ、興奮して、舞いあがっちゃって、仕事なのに」 そうだ、これは仕事なのに、こんなはしゃいでいてどうするんだ。 気を引き締めなきゃって決めたところなのに。 志藤さんはただ繊細な顔立ちに優しげな笑顔を浮かべている。 「この湖も大きいですが、海はもっと大きいです。三薙さんも見る日が楽しみですね」 「はい!」 この前した夏になったら海に行くかもしれないという話を覚えていてくれたのだろう。 実現するかどうかは分からない。 でも、海にいけるかもと思うと、わくわくしてくる。 今の湖も十分広くて綺麗だけれど、海はもっと大きいのだろうか。 行きたい。 みんなで、海を見たい。 「なあ、天、一兄が、暖かくなったら海行こうって。この前みたいに双兄とお前と岡野達とさ」 「ふうん」 「天も行こうよ!この前みたいに栞ちゃん連れてさ、あ、志藤さんもいけないかな、難しいかな」 志藤さんもそこにいれば、最高なのに。 そう思ってちらりと見るが、志藤さんは黙って笑うだけだった。 やっぱり無理なのかな。 「天も受験終わって、少しは遊べるだろ?」 天にもう一度視線を移すと、いつもクールで皮肉屋の弟は苦笑して頷いた。 「ま、そうだね。夏が来たら、それもいいかもね」 「だろ!」 そして本当に珍しく、俺の話に乗ってくれた。 嬉しくて、俺も大きく頷いてしまう。 「行きたいな。早く夏にならないかな。志藤さんもいてくれると嬉しいのにな」 「とりあえず今はお仕事。もういい?」 「あ、だな。ごめん」 興奮していた俺を宥めるように天が軽く肩を叩く。 それでようやく我に返った。 本当に少し落ち着かなければ。 「失礼しました、志藤さん。どうもありがとうございました」 「いえ、喜んでいただけたならよかったです」 「はい!とても綺麗でした!」 これからあの近くにいくのだろうけど、近くで見るのとこうやって俯瞰して見るのでは全然違うだろう。 この一枚の絵のような景色が見れて、本当によかった。 「湖って泳げるのかな」 「さあ、あの湖では泳がない方がいい気がするけど、止めないよ」 「いや、寒いから」 そんな馬鹿な話をしながら、俺達は車に戻った。 車でその後15分ほど走って、ようやく管理者の家まで辿りつけた。 家は、上から見た時と同じように湖にすぐ隣接するように建てられている。 近くで見ても湖は澄んだ蒼をしていて、太陽の光をいっぱいに取りこんでいる。 湖は人を寄せ付けない空気を持っていた。 それは嫌なものと言うよりは、凛として冷たくて厳しすぎて、近寄りがたい雰囲気。 なんだか、酷く違和感のある空気だ。 「湖、綺麗なんだけど、なんか怖い感じするな」 「そうだね。邪気も感じるけど、神聖な空気は崩されてない。なんかアンバランス」 天も同じように思ったらしく、少し首を傾げている。 家の前で車を止め、とりあえず三人で下り立つ。 湖の横に建てられた家は純和風のだだっ広い平屋。 手入れはこまめにされているらしく、屋根も壁も綺麗なものだ。 「この家が、今回の依頼主の立見(たつみ)家か」 「うん。当主は若い女性って話しだったっけ」 確か宮城さんから立見家当主は、最近代替わりしたばかりの若い女性だと聞いていた。 そんな俺たちの会話は聞こえていないはずだが、ちょうど大きな門のところに、巫女装束姿細身の若い女性が現れて、深々と頭を下げる。 俺たちがとりあえずそちらに向かうと、女性は穏やかに笑う。 黒く長い髪を後ろで束ねた、目を見張るような美人という訳ではないが、清楚で清潔な印象の綺麗な人だ。 俺たちよりも少しだけ年上、と言ったところだろうか。 「ようこそおいでくださいました、宮守家のお方々。遠いところはるばるご足労いただきありがとうございます。立見家当主、立見露子と申します」 「ご当主直々のお出迎え、光栄に存じます。この度宮守家当主より役目を承りました宮守四天と申します」 いつものように天が頭を下げて、ちらりと俺の方を向く。 今回は、俺に自分で自己紹介をさせてくれるらしい。 俺も習って頭を下げる。 「同じく、宮守三薙と申します。どうぞよろしくお願いいたします」 今回はどもることも声が震えることもなかった。 なかったと思う。 天が俺たちの後ろに控えていた志藤さんを指し示す。 「こちらは補佐として連れて来た志藤です」 「どうぞよろしくお願いいたします」 俺たちの挨拶に、露子さんが親しげに笑う。 「丁寧にありがとうございます。見たところ三人とも年も私と近いようだ。よろしければ堅苦しくない程度に接していただければありがたいです」 「お気遣いありがとうございます。では、お言葉に甘えさせていただきます」 「ええ、どうぞよろしく。さて、こんなところで申し訳ない。むさくるしいところですがどうぞおあがりください」 天の明らかな社交辞令も気にすることはなく、露子さんは気さくに笑った。 堅苦しい人ではないようで、ほっとする。 車は家の人がまわしてくれるということで、志藤さんも一緒に屋敷内に入った。 廊下は年季が入っていて、綺麗な飴色をしている。 「それにしても私より若い管理者の人間が仕事をしているのは初めて見ました」 「頼りなく思われますか?」 「いいや、天下の宮守家を疑うことなんてあるはずがないでしょう。それにお三方とも確かな力を感じる。信じるに足ると思っています」 「勿体ないお言葉です」 せっかく気さくにはなしかけてくれているのに天は身も蓋もない会話を繰り広げている。 けれど露子さんは気を悪くした様子もなく、俺にも笑いかかけてくれる。 「三薙さんの方が年上のようですが、おいくつなんですか?」 「え、俺が年上って分かったんですか!?」 「あはは、あってますか?」 「はい!」 いい人だ。 この人は間違いなくいい人だ。 「俺は十七歳で、四天が十五歳です。えっと、露子さんは」 「私は二十歳です。近いと言っていいものか迷いますが、近いですね」 「ええ。でも随分若いご当主なんですね」 少しだけ年上だが、それにしても当主としては年若い。 一兄よりも年下で当主ってすごい。 「ああ、実は本来の当主である姉が恋人と駆け落ちしてしまいまして。私が急きょ当主になった俄か当主なんですよ」 「え!?」 露子さんは朗らかに笑いながら爆弾を落とした。 思わず声をあげてしまったのは、俺一人だったが。 慌てて口を押さえる。 「他でもない。今回の邪気払いに関してはそれも影響してまして」 そこでぴたりと足を止める。 ずっと続いていた襖をからりと開ける。 「どうぞ、お入りください」 促されて中に入って、息を飲んだ。 襖の向こうは三十畳はありそうなだだっぴろい和室。 「わ」 そこは真っ青な世界。 部屋の奥は一面開け放たれていて、すぐそこに湖が広がっていた。 「守り神がお怒りなんですよ」 露子さんが困ったように笑って肩をすくめた。 |