「…………はあ」

もう一度大きく息を吐きだして、埃にまみれた教室に携帯を持った手を投げ出す。
そういえばこの教室はなんも展示をしないのか。
装飾は施されておらず、普段通りの姿でそこに佇んでいる。
夜の教室という非日常の中、それがなんだか余計に違和感があった。

「宮守?」
「あ、………岡野」

岡野も藤吉の隣に立ち、俺を覗き込んでいる。
綺麗な明るい茶色の髪が、暗い教室の中輝いている。
その後ろには槇もおずおずとこちらを見ていた。
白い肌はふわふわとして、柔らかそうだ。
そんなことを、呆けた頭で思った。

「今のって………」
「えっと、家に電話したんだ。もう、大丈夫だ。これで、平気」

ポケットに携帯をしまう。
力の抜けきっていた体を、床に手をついて少し起こした。
掌にザラリとした感触がして、気持ち悪かった。
岡野は俺の言葉に、少しだけ戸惑うような顔を見せる。

「………チヅの言ってたこと、本当だったんだ」
「え」

チヅって、確か佐藤のことだよな。
あの事件以来少し体調を壊していたらしいが、夏休み明けにはすっかり元通りになっていた。
それを見て、本当に嬉しかったのを覚えている。
ただ、何かを覚えていたのか、俺に話しかけてくれなくなっちゃったけど。

「あんたの家って、そういうオバケ?とか退治したりするような家だって」
「あ………」

岡野の言葉に、一瞬で顔が強張った。
床についた手の平を、ぎゅっと握る。
小石のようなものが皮膚に食い込み、小さな痛みが走った。

「あんたも、中学校だか小学校の頃からレーカン少年だって、有名だったって」

俺は二人の兄や弟と違って力がなく、要領が悪かった。
その上、あの頃は今以上に天に近寄るのが嫌で嫌でしょうがなくて、よく供給を怠っては倒れていた。
霊や邪に属するものに惑わされることも多くて、変な行動を取っては周りの人間には忌避されていた。
宮守は一帯では結構有名な名家で、辺りの社なんかを管轄していることも知っている人は知っている。
それもあって、ずっと変な奴とか、気味の悪い奴とか、言われていた。
藤吉みたいに、普通に接してくれる奴もいたけど、それでも周りに馴染むことはなかった。

だから、高校ではずっと目立たないようにしてたのに。
でも、やっぱり、そんなの無駄だよな。

「この前の片山町の時、あんたがなんかしたんでしょ?なんか、私らが逃げる時とか。チヅは、なんか今だにあの時の話すると、怯えるんだよね。何も覚えてないらしいけど」
「…………」
「ユーレイとか、信じてなかったんだけど、今も、あれ、絶対、人間じゃないしね」

俺を覗き込む三対の目から、逃れるように俯く。
握った手の指先が、冷たくなっていた。
また、あんな目で見られるのか、な。
化け物を見るような嫌悪に満ちた目。

「あのさ、宮守」

でも、俺は平田を、あんなひどい目に遭わせた。
ただ死ぬよりもひどい、囚われの身。
なら、その罰は受けて当然のことだ。
なら、逃げるな。
そんな痛みぐらい、目をそらすな。

「あ、あの」

許してくれなくても、嫌悪の目で見てもいい。
でも、もう逃げるな。
ただ、謝罪は、しなきゃ。
それで許されるとも思わないけど。

「ごめ」
「ありがと」
「え」

けれど、謝罪を口にしようとしたその時、思いをよらぬ言葉を耳にして、一瞬何を言われたのか分からず、顔をあげた。
そこには、真面目な顔で俺をまっすぐに見つめる岡野のキラキラ光る青で彩られた目。

「この前、あんたが助けてくれたんでしょ?私たちのことも、チヅのことも」
「………え」

何を言っているのか、よく分からない。
意味が分からなくて、藤吉と槇に視線を移す。
二人とも笑いも怒りもせず、神妙な顔でじっと俺を見ていた。
そこには嫌悪も、畏怖も、何もない。

「ずっと、そう言いたかったんだ、私とチエ。でも、あんたずっと私らのこと避けてるし」
「あ、それは………」
「なんか、あの件について言っちゃいけないとか、あるの?」

黙って首を横にふる。
責められると、思っていたから。
怖くて、ずっと怖くて、だから逃げていた。
物言いたげな視線から、背を向けていた。
逃げるなんて卑怯だと思いながら、それでも怖くて。
罵倒が、畏怖の目が、嫌悪の感情が、怖くて。
ただ、逃げていた。

「千津はあの時のこと覚えてないし、怖がってるから、お礼も言えなくて、ごめんね。たぶん、宮守君がいなきゃ、危なかったんだよね?」

槇が柔らかいおっとりとした口調で、そう言ってくれる。
なんだか熱いものがこみあげてきて、何も言えなくなってしまう。

「今も多分、助けてくれようとしてるんだよね?私たちには、よく分からないんだけど」
「ま、き………」

声が、震える。
苦しい。
何か言いたいのに、出てこなくて、喉に詰まって、苦しい。
体の中の感情を、処理できなくて、頭がぐるぐるして、苦しい。

「だからね、ありがとう」
「うん、ありがと」

槇と岡野が、俺を見下ろしながらぎこちなく笑う。
苦しくて苦しくて苦しくて、胸の中の熱いものを吐き出したい。
ああ、でもだめだ。
この許しに、甘えてしまっては駄目なんだ。
俺は、守れなかったんだから。

「………でも、でも、俺………、平田が………」

あいつを守れなかった。
俺は弱くて、何もできなかった。
お礼なんて、言われる立場じゃない。
その名前を聞いて、二人の少女が表情を曇らせる。

「………平田、どうなったの?」
「そ、れは………」

形もなく、再生もない、闇に飲み込まれた。
管理人が土地の調整のために祓いを行うまで、あいつはあそこに囚われつづける。
次の祓いがいつかはわからない。
もう、人としての意志はない。

それを言えなくて、俺は黙り込む。
卑怯者。
臆病者。

「平田、戻ってこないの……?」
「………」

頷くことも、首を振ることもできない。
なんて言ったら、いいのだろう。

「………最初ね、あんたが何かしたんじゃないかって思ったんだけど」

また俯いた俺に、岡野が小さくため息をつく。

「………」
「でもさ、チエがさ、あんたが私たちになんかしようと思ってたんだったらあんな回りくどい真似はしないって。ていうかそもそも、誘ったの私たちだし。あんた、私たちに連れてこられただけったしね」

恐る恐る顔を上げると、岡野は笑って指輪を沢山つけた綺麗な指で髪をかきあげた。
ああ、やっぱり重そうだな、あの指。
いつも、そう思っていた。

「………」
「あんた、助けてくれようとしたんでしょ?」
「助けたかった………、助けたかったんだ………」
「………うん、信じる。今も、必死で、私たちのこと、助けようとしてくれてるしね」

どこか泣きそうな、少し意地が悪そうに見える笑い方をして、岡野が腰をかがめて俺を覗き込む。
槇も一歩近づいて、頷いてくれた。

「私も、信じるよ、宮守君」

ああ、もう駄目だ。
平田、ごめん、ごめんな、平田。
でも、この許しにすがりたい。

「平田のことは、ごめん、ちょっとテンパってる。けど、あんたのせいじゃ、ないでしょ。それは、わかるよ。あの後、あんたも怪我だらけに、なってたよね」
「………う」

苦しい。
もう、堪え切れない。
弱くて、ごめんなさい。
卑怯で、ごめんなさい。
臆病で、ごめんなさい。

「えーと、俺なんか蚊帳の外なんだけど、なんの話?」
「あ、いたんだ藤吉」
「ひどいな、岡野」

藤吉が俺達のやりとりに困ったように首をかしげている。
暗い教室の中、せっぱつまった状況。
それなのに藤吉はいつもどおりマイペース。
それがおかしくて、頬が緩む。
昔から、藤吉だけは、俺を変な目で、見なかった。
いつでもマイペースに接してくれた。

「前にさ、片山町の有名な幽霊屋敷あるじゃん?あそこ行った時、宮守が助けてくれたの。今みたいに」
「ああ、なるほど。あそこか」

視線を天井に向けて、思い出すように何度も頷く。
どうやら有名な場所だったらしい。
それから俺に向って、にっと笑った。

「宮守って本当に霊感少年なんだ」
「………気持ち、悪いか?」
「なんで?」

不思議そうに眼鏡の下の目を何度も瞬かせる。
それは本当に、俺の言葉が疑問だというように。

「だって俺、こんな変な行動して、そのくせ、何もできなくて、みんなを守れなくて、変なやつで……」
「別に、変な行動じゃないじゃん。まあ、よく分からないけど、助けてくれようとしてんだよね?」
「う、うん」
「俺も幽霊とか半信半疑だけど、こんな体験しちゃ信じない訳にもいかないし。あれ、誰かのイタズラとも思えないしね。宮守、頼もしかったじゃん」

どうして、皆こんなに優しいんだ。
どうして、こんな駄目な俺を許してくれるんだ。
縋ってしまう。
甘えてしまう。

「俺、でも、浜田のこと、守れなかったし………」
「………でも、出来ること、やってくれようとしたんだろ?」

俺は、何度も何度も頷く。
助けたいんだ。
助けたかったんだ。

平田も、雛子ちゃんも、望君も、みんなみんな、助けたかったんだ。
誰一人、傷つけたくなんて、なかったんだ。

もう、駄目だ。
ごめん、ごめんなさい。
みんな、ごめんなさい。
でも。

「………俺、変な奴で、弱くて、役立たずだけど、でも、許して、くれる?」

縋るように見上げると、三人は不思議そうに何言ってんだこいつって顔をする。

「いや、ていうか許すも何も、別に怒ってもないし」
「うん、平田のことも、浜田のことも別にあんたが悪いわけじゃないし」
「ありがとうって思ってるけど、別に怒ってないよ。私達も、何もできない」

ごめんなさい。
ごめんなさい。
ごめんなさい。

でも、もう、無理だ。

「う………」

熱い感情がそのまま、溢れだしてくる。
苦しい。

俺は卑怯です。
俺は臆病ものです。
俺は、弱いです。

嬉しい。
嬉しい嬉しい。

ごめんなさい、俺のした事は絶対に忘れないけど。
絶対に、忘れないけど。

でも、この人たちに甘えることを、許してください。

「泣くなよ」
「ごめ……、ごめん……」

岡野に怒られて、必死で埃だらけの手で顔を拭う。
でも、涙はいつまでも止まらなくて、手がべたべたになっていく。
子供のようにしゃっくりをしながら泣く俺に、岡野が呆れたように肩をすくめる。

「もう、しょうがないなあ」

ため息をつきながらしゃがみこんで、俺の頭に手を伸ばす。
短いスカートでしゃがみこむから、白い太ももが露わになって思わず目を逸らす。
岡野はその細い指で、乱暴に頭をぐしゃぐしゃと撫でてくれる。
ごつい指輪が当たって、少し痛い。
でも、その手が嬉しくて、涙がますます溢れてくる。

「あ、ありが、ありがとう………ありがとう」
「宮守君、泣き虫だなあ」
「あ、はは、ごめ、俺涙腺、弱くて」

鼻がつまるし、しゃっくりが止まらないし、うまく礼が言えない。
すると、槇も笑ってしゃがみ込む。
ポケットからレースのかわいいハンカチを取り出して俺の顔を拭ってくれる。

「あ、汚れる、よ」
「いいよ。ほら、顔真っ黒」

槇がくすくすと優しく、笑う。
埃まみれの涙まみれの鼻水まみれの、汚い顔。
気にすることなく、槇は白いふっくらとした手で綺麗にしてくれる。

「宮守、ずるいなあ、女の子二人抱えて」
「はは、ごめんね、ありがとう、本当にありがとう、藤吉」

ずっと、俺を見捨てないでくれて、ありがとう。
ずっと、普通に接してくれて、ありがとう。
ただのクラスメイトとして、扱ってくれて、ありがとう。

嬉しくて、たまらない。
温もりが、体を包んでいく。
でも、伝えきれない感情が詰まって、苦しい。

だから、俺は、頑張って、笑顔を作る。
鼻はつまるし、まだしゃっくりは止まらないし、うまく出来なかったけど。
でも、この大きな想いが少しでも届くように、必死で笑って、三人に伝える。
きっと、伝わり切らないだろうけど。

「ありがとう、岡野、槇、藤吉」

三人はなんだか照れくさそうに、不器用に笑ってくれた。





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