チャリ、チャリ、チャリ。 一定に響く金属音が、すぐ傍まで来ている。 それと同時に、据えたような異様な匂いが近づいてきていた。 生臭いような、腐ったような、不快感を催す匂い。 恐怖と吐き気と圧迫感を押さえつけ、なんとか目を開く。 チャリ、チャリ、チャリ。 「………っ」 茂みの陰から見えたのは、細い脚。 細い、細い、白い、足。 白い足に、あれは白い靴下か。 チャリ、チャリ、チャリ。 違う、細いのではなく、肉がそげ落ちている。 白いと思えたのは、すっかり腐り落ちてあらわになっている骨。 そして、靴下に見せたのは、残っている肉に、たかっている蛆。 食らいつく蛆が、びっしりと蠢いていてる。 ぼとぼとと、動くたびに、白い小さな虫が、道に転々と落ちて行く。 酸っぱいものがこみあげてきて、軽くえづく。 駄目だ。 呼吸を乱すな。 落ち着け、落ち着け、落ち着け。 チャリ、チャリ、チャリ。 ゆっくりと視線を上にずらすと、ボロボロになった地味な色合いのスカート。 ゆったりとした、薄汚れたシャツ。 近所のおばさんがしているような、なんでもない格好。 その上には、首。 そして、その首には、太い鎖。 女性らしき人影が一定の速度で歩くたびに、それは同時に上下に揺れて、金属音を奏でる。 音の正体は、あれか。 チャリ、チャリ、チャリ。 鼻が曲がりそうな匂いが、鼻孔の奥まで入り込む。 体中に嫌なにおいが染み付いて行く気がする。 肺までこの腐った匂いで、いっぱいになっている。 吐きだしたい。 顔をそむけたくなる。 我慢しろ。 目を逸らすな。 生理的な嫌悪感に嫌がる体をなんとか宥めすかして、更に視線を上に上げる。 チャリ、チャリ、チャリ。 首の上は、顔。 肉が落ち、蛆が集り、歯がむき出しになっている。。 そして目があったはずの場所にぽっかりと空いた空洞に、どろりとした何かが揺れている。 「………っ」 チャ、リ。 思わず強くえづいてしまう。 目の前を歩く何かが、動きを止める。 しまった。 落ち着け落ち着け落ち着け。 ぐるり。 何かが、こちらに顔を向ける。 すでに溶け落ち空洞になった目が、こちらを見る。 目を逸らせない。 呼吸を戻せない。 駄目だ、目が合う。 「っ」 そう思った瞬間に、冷たい手が目を覆う。 肩を抱く手が力を込める。 耳元で、呼吸を感じる。 落ち着いた呼吸を感じる。 落ち着け。 呼吸を合わせろ。 大丈夫、出来る。 金属音は聞こえない。 化け物が歩き出す気配はない。 こちらを見ている気がする。 駄目だ、気を逸らすな。 大きな手が、宥めるように肩を撫でる。 そうだ、大丈夫。 何かあっても、この手の持ち主がいる。 だから、大丈夫。 体中に入っていた力が、ゆったりと抜ける。 深い呼吸を、取り戻す。 目を閉じて、力を、重ねる。 「………」 「………」 気が遠くなるほどの、長い時間。 でも多分、実際にはそれは数えるほどの時間だったのだろう。 チャリ、チャリ、チャリ。 また、一定に聞こえてくる、金属音。 安堵から、気が遠くなりそうだった。 でも、ここで気を抜く訳にはいかない。 まだ、耐えろ。 チャリ、チャリ、チャリ。 チャリ、チャリ、チャリ。 金属音は、徐々に遠ざかっていく。 呼吸を必死で整えながら、それを確かめる。 どれくらい経ったことだろう。 もうすっかり金属音が聞こえない。 濃厚な闇が、わずかに薄くなっている。 目を覆っていた手が、そっと外される。 「………もういいよ」 「は、あ」 言われた途端、全身の力が抜ける。 ようやく生き返った気がして、大きく息を吸う。 「はああああああ」 まだまだ気配は邪に満ちていて、呼吸をしても息苦しい。 けれど先ほどよりはずっとマシだ。 「はい、ご苦労さま。よく我慢したね、えらいえらい」 「………」 天がさっさと立ち上がり、俺を見下し投げやりにねぎらいの言葉をかけてくる。 ていうかなんでこいつは本当に言動の一つ一つ全てがムカつくんだ。 ある意味すごいぞ。 「でも、あれくらいで動揺しないでよ。仮にも宮守の人間なんだから」 呆れたように言われて、頭に血が上る。 そんなの、俺だって分かっている。 あれくらいで、動揺するのは情けない。 分かっているけど、四天に言われると、腹が立って仕方がない。 「お前な!」 「あ、熊沢さん、どうでした?」 けれど文句を言う前に、天は俺なんてもうどうでもいいとばかりに、同じくすでに立ち上がっていた熊沢さんに話しかける。 熊沢さんは場にそぐわない爽やかな笑顔で応える。 「ビンゴです。一月前に行方不明になって捜索願が出ている主婦でした。昔は美人さんだったみたいですけどね随分様変わりしちゃってましたね」 「そうですか」 交わされている会話の意味が分からなくて、首を傾げる。 天を見上げて、意味を問う。 「どういうこと?」 「死体は一月ごとに見つかるでしょ?」 「あ、そうか。うん」 そう言えば、そうだ。 半年で5人。 最後の犠牲者は、一月前。 「それで必ず痛んだ状態で見つかる。なら、大体一月前に死んでるってことだろうなってことで。すでに次の犠牲者は出てるんだろうと思って、熊沢さんにこの辺で行方不明者いないか調べてもらってたの」 「ちょっと範囲が広くて大変でしたけどね。何人かの候補の中の一人でした」 熊沢さんが四天の説明に補足する。 言われて、ようやく思い当る。 確かに、一月に一人、痛んだ状態で見つかる犠牲者。 前の犠牲者から一月。 そろそろ、次の犠牲者が出てもおかしくない。 てことは、一月前ぐらいに、行方不明になっている人が怪しいってことになるのか。 えっと、ってことは怪異の正体は、犠牲者本人ってことなのか? 何かが憑いているのかな。 気配が濃すぎて俺にはよく分からなかったけど。 「………て、お前、そんなこと全然言ってなかった」 「まだ確信じゃなかったからね」 「でも!」 「言ってどうするの?兄さん何かしてくれる?」 別に嫌みっぽくもなく自然と言われて、言葉に詰まる。 言われても、確かにどうにもならない。 何もできない。 どうしたらいいか分からない。 「………」 「それに、それくらいは自分で考えて欲しいかな」 「………」 材料は、確かにあった。 与えられた情報量は、一緒だ。 だったら、俺もそこに思い至っても当然だった。 全ては、俺の思慮も努力が、足りないせいか。 天を責めるのは、お門違い、か。 「お二人とも、それくらいで。三薙さんもまだまだ経験が浅い状態です。そこまで仰らなくてもいいでしょ。三薙さんも、二度目の仕事です。徐々に慣れて行けばいいんです」 苦笑しながら、熊沢さんが仲裁に入ってくれる。 天は軽く肩をすくめた。 「ま、そうだね。さて、あれどうしようかな」 まだ、もやもやとしていたけれど、確かに落ち込んでいても仕方ない。 これから、徐々に慣れればいいんだ。 今回のも経験だ。 こういう風に、考えていけばいいんだ。 落ち込んで、足を止めるな。 「………あれ、退治できるの?」 「あれくらいなら簡単にできる」 自信に満ちた、天の言葉。 ああ、そうですか。 そりゃお前なら軽いだろうさ。 「ただ」 「何?」 「………気に食わない」 「え?」 嫌そうに顔をしかめた天が、吐き捨てるように言う。 問いかけても、天は親指の爪を噛み、黙り込んでいる。 そしてしばらくして、はっと息を吐き出した。 「………いや。とりあえず明日、またあいつが出るようだったら一応祓ってみよう」 「一応って」 「はっきりしたら、言うよ」 「………」 思わず文句を言いそうになるが、やめておいた。 言い争っても仕方ないし、自分でも考えなきゃ。 「一応周りを見回ってから、帰ろう。今日は次の犠牲者は出ないと思うけど」 促されて、立ち上がろうとする。 すると脳が揺さぶられるようにぐらぐらとして、足元がふらついた。 「あ」 倒れる、と思った瞬間大きな手が、背中を受け止めてくれた。 何回目だろ、このシチュエーション。 ああ、情けないなあ。 「大丈夫ですか?」 「は、はい」 熊沢さんは優しく笑っていてくれる。 ああ、本当に恥ずかしい。 弱い自分の体が、心底嫌になる。 「車までおぶっていきますよ」 「い、いいです!」 しかし落ち込む暇なく、熊沢さんがとんでもないことを言い出す。 思い切り首を横に振って、謝辞する。 「でもふらふらじゃないですか」 「いえ!」 申し出はありがたいが、この年でおんぶはごめんこうむりたい。 「だいじょ………」 急いで大丈夫なことをアピールしようと一歩歩いて、またふらついてしまった。 もう一度、熊沢さんに支えてもらう。 今度は、苦笑交じりだった。 「遠慮しないで」 「遠慮じゃなくて」 「兄さん、何度失敗したら学ぶの?自分の限界の見極めは見誤らないようにね」 「………」 冷たい声に言われて、黙り込む。 でも、だからといっておんぶは嫌だ。 「あ、じゃ、じゃあ、黒輝とかにせめて」 「なんで代用品あるのに、わざわざ俺が術使って疲れないといけないの」 「う」 使鬼を使うぐらい、どうってことないくせに。 そんなに力が満ち溢れているくせに。 でも確かに使鬼を使うのはかなり力を食われるらしいから、何も言えない。 「代用品って俺ですか?四天さんの力の消耗を防ぐのは大事ですが、俺の労力は無視ですかね」 「熊沢さんはそのくらいでお疲れになるようなやわな鍛え方されてないでしょう」 困ったように頭を掻きながら熊沢さんが軽く不満を漏らすと、しれっと四天が返した。 こいつ、仮にも年上の人にどういう態度だ。 もの扱いかよ。 「まあ、いいですけどね」 熊沢さんは失礼な弟の態度にも大人の態度でため息ついて、苦笑する。 そして俺に背を向けてしゃがみこむ。 はい、三薙さん」 「ええ!?」 「四天さんのおっしゃる通りですよ。素直に人の手を借りることができるのも、一人前の証ですよ。強がって失敗するのは半人前」 たしなめられるように言われると、返す言葉がない。 そうだ、ここで意地を張っていっつも失敗するのが、俺だ。 「………」 「それともお姫様だっこがいいですか?」 「おんぶで!」 「はい、それじゃどうぞ」 「う」 はめられた。 でももう、ここで意地を張っても、仕方ない。 ここは素直に人の力を借りるのが、正しい道だ。 でも頼むから肩を貸してくれるぐらいにすればいいのに。 おんぶ。 まあ、効率いいんだけどさ。 「………ありがとうございます」 「いえいえ」 仕方なく諦めて、熊沢さんの背中を借りる。 細身に見て、結構がっしりしているのは、知っている。 「すいません、重くて」 「いや、もうちょっと食べた方がいいですよ。後、気合い入れて背を伸ばした方がいいですよ」 「気合いで伸びるなら伸ばしてます」 車に戻るまえの十分間、俺は羞恥に耐え続けた。 |