天は赤く汚した顔のまま、天使のように笑う。
だらりと垂らした右腕からはポタポタ水滴が落ち、地面に水たまりを作っている。
それは、痛々しさよりも、非現実的な美しさを感じた。
天には、赤が、よく似合う。

「俺はこの通り、右手が使えないからね、兄さん代わりにお願い」

差しのべられた剣を、ぼんやりとしたまま、受け取る。
鉄で打たれたそれは、ずしりと重く、俺には振り回すことは難しそうだ。

「ね、兄さんは家の役に立ちたいんでしょ?」

天がにっこりと笑ったまま、体をかがめて俺の耳元に囁く。
そうだ、俺は家の役に立ちたい。
役立たずのままでは、いたくない。
ただでさえ、家族の力を消費するだけの俺だから、少しでもいいから、何かをしたい。

「仕事、だよ」

噎せ返るような、血の匂い。
この剣で、闇を討つ。
それは、管理者の仕事。
それは、やらなければならないこと。

「大丈夫、あの人はもうどうせ助からない。この剣で刺してあげることが、あの人のためだよ」
「………て、ん」
「それとも、汚れ仕事は俺のもの?」

剣に向けていた視線を、上に向ける。
天は面白がるように、俺の表情をじっと見ていた。

分かっている。
分かっている。
分かっている。

もう、祐樹さんは助からない。

「………」
「さあ、どうぞ?」

ああ、俺は卑怯だ。
思っているよ、天。
お前の言うとおりだ。
俺は思っている。

お前がやってくれればいいのに、って思ってる。

俺は、あの人を刺したくない。
この剣で刺し貫くことを考えると、体が震える。
肉を貫き、骨を断ち、血しぶきを浴びる。
それを想像して、ビビっている。
だから、目を瞑っている間に、終わってくれればいいのにって思っている。
お前が全て、片付けてくれればいいのにって思っている。

「………祐樹、さん」

ああ、剣が重い。
立ち上がれないほどに、重い。

座りこんだまま祐樹さんを見上げると、祐樹さんは鎖と白い力に縛られたまま苦しそうに顔を歪めていた。
あなたを止めたのも、きっと、俺は自分が嫌だからだ。
あなたが死ぬのを、俺が見たくないからだ。
俺が、嫌な思いをしたくないからだ。

「あなたが、俺を殺すんですか?俺を救いたいと言っていた、あなたが?やはりあれは、口先だけですか」

祐樹さんが苦しそうに、けれど俺を見下ろして、鎖の向こうから笑う。
その言葉が、何より、俺の心を引き裂く。

「………っ」
「あなたが、この闇を引き受けてくだされば、俺は助かるかもしれませんよ」

祐樹さんを救うために、自分の身を投げ出す?
俺には、あの闇を全て飲み込むことは、できない。
あれだけでも、いっぱいいっぱいだった。
今だって、さっきのものを消化するのに必死だ。
きっとこれを全て飲み込めば、俺は壊れる。

俺は、まだ死にたくない。
死にたくない。
壊れたくない。
嫌だ。

所詮俺は、自分がかわいい。

「兄さん、聞かなくていい、たわ言だ。これが、救いだよ」

天が、祐樹さんとは逆隣から、剣を持つ俺の手に自分の手を重ねて、囁く。
どうにかしてほしくて、天を見上げる。
お前にはまだ、左手があるだろう、と言ってしまいたい。
けれど天は、剣を受け取ってはくれない。

「………」

すがるように、剣の柄を、握りしめる。
しかしそれは、ぬるりと滑った。
驚いて自分の手を見ると、その手は赤く染まっていた。
ああ、これは、天の血か。

「また、泣く」

不機嫌そうな、声。
頬が、いつの間にか濡れていた。
なぜ泣いているのか、分からない。
ふがいない自分が、悔しいのか。
付きつけられた現実に、恐怖しているのか。

「やっぱり出来ないの?本当に兄さんは一人だけ綺麗なところにいようとする。人に汚れ仕事を押し付けてね」
「………四天」
「いいご身分だね?」

天が俺を見下ろし、嘲り笑う。
誰も傷つけたくない。
祐樹さんを殺したくない。
逃げ出したい。
痛いのは嫌だ。
怖いのは嫌だ。
自分が、痛いのが、何より嫌だ。

そして天に全てを押し付ける。
俺は、なんて、卑怯だ。

「いいよ、貸して」
「………天」

天が手を伸ばす。
どうしたらいい。
これを、渡す。
そして、俺はただ見ている?
嫌だ。
じゃあ、この剣で、祐樹さんを貫く?
それも、嫌だ。

「四天さん、俺が」

気が付くと、熊沢さんが隣に来ていた。
静かな声で、そっと四天を促す。

「分かりました。頼みます」
「かしこまりました」

いつになく真剣な顔で、頭を下げる。
そして、今度は熊沢さんが俺に手のを伸ばす。

「三薙さん、剣を」

そうして、俺は高みの見物。
全てを弟と使用人に任せて、膝を抱えて泣いている。

「さ、三薙さん」

手を汚すのは、四天や熊沢さん。
嫌だ。
そんなのは嫌だ。
そんな卑怯者には、なりたくない。
俺だって、管理者の家の人間なんだ。
宮守の、直系なんだ。

「………俺が、やります」

きっと、一兄も双兄も、やるだろう。
仲間外れは、嫌だ。
俺も皆と一緒でいたい。
なんて、勝手で、稚拙な理由。
自分が情けなすぎて、呆れた笑いがこぼれる。

これは、仕事だ。
仕事なんだ。
ああ、父さんは、こうなることがわかっていたのかな。
だから、俺をここに向かわせたのだろうか。
俺に管理者としての、自覚を持たせるために。
仕事が出来ると無邪気に喜んでいた俺を戒めるために。

「祐樹さん」

重い剣を引きずるようにして、立ち上がる。
足が重い。
腕が重い。

「………あなたの行く末は、きっと痛みに満ちているのでしょうね」
「………」

祐樹さんが、優しく笑う。
俺の頭を撫でてくれた時と同じように。
胸が、無数の針で突き刺されたように痛い。

痛い。
痛い。
痛い。

「もっと、強くなってください。俺は、あなたの弱さこそ愛しいと思いますが」
「祐樹、さん」
「さあ、俺もあの人に殺されるよりは、あなたに殺されたい」

どうして今になってまた、そんな優しいことを、言うんだ。
どうして。
ずるい。
あなたが、嫌な人であったら、俺はためらいなくこの剣を振れたかもしれないのに。
どうして俺に罪悪感を残すんだ。
俺に嫌な思いを、させるんだ。

「俺が救われる道は、これしかないのですから。お願いします」
「………わかり、ました」

目を瞑って、剣を掴み直す。
ぬるつく柄は、滑ってうまく握れない。

「………災い成すもの、宮守の血と名において、討ち臥さん」

呪と唱えて、剣に力を纏わせる。
ごめんなさい。
ごめんなさい、ごめんなさい。
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。

「貸して!」

高い声。
持ち上げようとしたその時、右手から剣が誰かに奪われた。

「えっ」

血で滑る柄は、するりと手から零れ落ち、奪い取る誰かの手に渡る。
そのまま誰かは剣を持ったまま祐樹さんに駆け寄り、その腕を振りかぶる。

「………っ」

唇を噛みしめ、眉を寄せ、苦しそうな顔で、一瞬だけ、腕を止める。
祐樹さんが、どこかあどけなく、笑う。
剣を持った、腕が、振り下ろされた。

「雫さん!」

ザクリ、と音がして、その剣が、鎖を貫き、祐樹さんの胸に吸い込まれた。
ギッィイイイイイイイイィィイイイイイイ。
耳障りな金属音が森の中に響き渡る。
反響するように、森が揺れる。

「………雫」

祐樹さんにまとわりついていた鎖が、全て霧散していた。
胸が剣に貫かれたまま、祐樹さんが雫さんを見下ろし笑う。

「………っ」
「ありがとう」

小さな小さな、優しい穏やかな、声。
雫さんの唇から、血が、零れる。

「………ごめんね」

最後の言葉は、空耳だったかもしれない。
ドサリ、と音をたてて、祐樹さんの体が地面に倒れる。
雫さんの膝から力が抜けて、その傍らに座りこむ。

「おにい、ちゃん」

うつぶせに倒れた祐樹さんを見つめ、雫さんが、つぶやくように、呼ぶ。
けれど、もう、その体は動かない。

「おにいちゃん………おにいちゃん」

泣きもせず、ただ、呆然と、兄を呼ぶ。
親に置き去りにされた子供のように、頼りなく、幼い声。

「お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃん」

その声が、哀しくて、苦しい。
胸が、痛い。
痛い。
苦しい。

俺が、もっと早く、決断していれば雫さんに、こんなことをさせなくて済んだのだろうか。
俺が、さっさと、祐樹さんを、殺していれば。
最愛の兄を、雫さんに討たせることは、なかった。
どうして俺はいつもこうして、後悔ばっかり。

でも、ごめんなさい、雫さん。
俺は今、自分の手で祐樹さんを刺さなくて済んだことを、心底ほっとしているんだ。
ごめんなさい。
ごめんなさい。

「………雫、さん」
「雫さん」

俺が声をかける前に、四天が前に出て雫さんを見下ろす。
天が、雫さんの名前を呼ぶのは、初めてだ。
そして、丁寧に、深く頭をさげた。

「石塚次期当主としてのお役目、見事果たされましたこと寿ぎ申し上げます」

雫さんはゆっくりと顔をあげる。
呆然とした顔で、何も映さない目で、四天を見上げる。
こんな時に何を言っているのかと、憤って止めようとする前に、天は先を続けた。

「あなたが、石塚を継ぎたいのでしたら、宮守が後見いたします」

布を巻きつけ止血をしているが、それでも腕には血が滲んでいる。
けれど、まっすぐに背筋を伸ばし、そんな様子は全く見せない。

「力の扱い方と、管理地を治める術をお教えいたしましょう。当主となられる時も、後押しいたします」
「………」
「これは、祐樹さんのご希望です」

そこでぼんやりとしていた雫さんがようやく、目に感情を見せる。
四天はそれを認めて、少しだけ表情を和らげ先を続ける。

「祐樹さんに、昨夜ご依頼いただきました。あなたが石塚を継ぎたいというなら、そのサポートを、そして石塚を必要ないというのなら、石塚の地をよく取り計らうよう」

いつの間に、そんな話をしていたのだろう。
祐樹さんは、最初から覚悟していたのだろうか。
こうなることが、分かっていたのだろうか。
それでいて、雫さんを、宮守に託したのだろうか。
雫さんが自由に、生きられるように。
望むように、生きられるように。
最初から、彼は、死ぬつもりだったのだろうか。

「宮守にとっても、管理者同士の繋がりが深くなるのは願ってもないこと。現当主がいらっしゃいますから、わたくしどもの好きにするという訳にはいきません。けれど、あなたの後見ということでしたら、あなたがお望みでしたらいつでも」
「………私は」

雫さんはけれど、鈍い反応しか返さない。
まだ、何を言われているのか、分からないというように。
仕方がないだろう。
最愛の兄を失った後で、そんなことを言われても、判断できるはずがない。
もう少し、時が必要なんじゃ、ないだろうか。

「今回の件は、祐樹さんの一存で行われたと思われますか?」
「………え?」

けれど四天は、先を続ける。
血に濡れた頬にうっすらと、微笑みを浮かべながら。

「わたくしどもを呼ぼうとしたのは、どなたでしたでしょうか。呼ぶことによって、リスクの高くなる私たちを、どなたが呼ぼうとしたのでしょうか」 「………」

雫さんの、ぼんやりとしていた表情が、驚きが浮かぶ。

「そして、その私たちをすぐに帰そうとしたのはどなたでしょう。祐樹さんは、本当に誰にも相談しなかったのでしょうか」

空中を睨みつけるように目を細める。

「祐樹さんの一番身近のいる人は、この地の異変に真っ先に気付くべきだった人は、何も知らなかったのでしょうか」

血で濡れた唇を、更に噛みしめる。
頬に朱が差し、目に輝きを取り戻し、精気が浮かぶ。

「祐樹さんが力を得ることで利するのは、祐樹さんだけだったのでしょうか」

雫さんの手が、白くなるぐらいに、土を握りしめている。
爪に土が入り込み、指にも血が滲む。
先ほどまで、放っておいた祐樹さんの後を追うのではないかと思うぐらいに絶望に満ちていた表情が、すっかり、消えている。

「連絡先は、後でお教えいたします。その気になりましたらいつでもご連絡ください」

四天はそう言い置いて、座りこんでいる雫さんに背を向けた。
熊沢さんが、雫さんを抱えるように立ち上がらせる。
雫さんはされるがままに、手をひかれて、歩き出す。

「………雫、さん」

雫さんは俺にちらりと視線を向けて、そのまま熊沢さんと歩いて行った。
まだ頼りない足取りだったが、けれど、まっすぐに歩いていた。
苦しくて、痛くて、胸のあたりを掻きむしるが、痛みは一向に誤魔化されない。

「………四天、今のは」
「まあ、多分知ってただろうね。気づかないはずが、ない」
「………」

四天は祐樹さんの体から左手で無造作に剣を引き抜いて、血を振り払う。
赤く濡れた刃は、薄暗い森の中で鈍く光る。
見ていられなくて、目を逸らした。

「怒りや憎しみって、割と生きる力になるんだよ。あのお姉さんも生きる目標があった方が、いいでしょう」

雫さんの感情は、どこに向かうのだろうか。
誰よりも慕っていた兄を失って、それには身近な人間を関わっているかもしれない。
それを知って、彼女は、どうするのだろう。
少し怒りっぽくて乱暴で、でも純粋で優しくてまっすぐな人。
さっきの表情は、怒りと、そして憎しみに満ちていた。

「さあ、帰るよ。とりあえず片付いた。これも後は石塚に任せよう。少しの間、この辺りは荒れるかもしれないけど、後は石塚の追加依頼が来ない限り、手は出せない」
「………っ」

これ、とは、すぐ傍らで横たわる、優しく穏やかだった人。
四天は正しい。
四天は、間違っていない。
それでも、どうして、この弟はここまで冷静で、あれるのだろう。

「………これしか、なかったんだよな」

剣を布で軽く拭いて、鞘に納める。
右腕が痛んだのか、少しだけ四天は顔をしかめた。
それからうんざりしたようにため息をついてから、俺をちらりと見る。

「兄さんは、いつまでそうやっていれるんだろうね?」

分かっている。
分かっているんだ。

お前が、正しい管理者の、姿だ。
でも、どうしても、俺はお前のようには、なれない。

俺は、お前が、怖い。





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