白い、世界。
乳白色の、温かみのある綺麗な落ち着く世界。
ただ、その白い場所に、俺はいた。
そして、姉さんが仁王立ちで俺を待っていた。

「………」
「………あ、あの」

恐る恐る見上げるが、姉さんは腕を組み、口を閉ざしている。
怒ってる、のかな。
俺があんまりへたれだから、怒ってるのかな。

「………ね、ねえさん」
「………もう」
「ご、ごめんなさい」

思わず謝ると、ため息をついて姉さんは怒ったような顔を一気に緩ませた。
そして困ったように苦笑する。

「あそこはあなたの世界なんだから、本当ならなんだって出来るのよ。あなたが王様なんだもの。あなたの世界で、あなた以上に強い存在なんて、そうはいない」
「………ごめん、なさい」

そうは言われても、どうしたらいいか分からなかった。
でも、姉さんに迷惑をかけたのは確かだ。

俺はもう一度、頭を深々と下げた。



***




俺が目を覚ましたちょっと後に、双兄も目を覚ました。
頭を軽く振りながら、ゆっくりとベッドの上に体を起こす。

「………おい、なんかあいつ怒ってるんだけど」

顔を顰めて額を手で押さえ、二日酔いの朝みたいに辛そうだ。
あいつって、姉さんのことだよな。
二人はコミュニケーションはとれるのか。
当然のことなのかもしれないのだが、なんか不思議な感じだ。

「………えっと」
「何してんだよ」

双兄がため息交じりに睨んでくる。 何をしたのか、と言われても。

「………何も、してない?」

から、怒られたとしか思えない。
そう言うと双兄は俺の脳天にチョップを食らわせた。

「おいこら!夢をつなげるってそれなり体力いるんだからな!謝れ!俺に謝れ!」
「双兄何もしてないじゃん!」
「俺は術の安定を担ってんだよ!そんで俯瞰して世界を見てるんだよ!世界つなげたり、それを維持したりとか大きいところは俺の役目。細かいところはあいつの役目!」

あ、そういうことなのか。
双兄偉そうに信じろって言ってくるせに何もしてないじゃん、なんてちょっと思ってごめんなさい。
双兄も、ちゃんとやっていてくれたんだな。
本当にごめんなさい。

「………ごめん、なさい」
「まあ、あいつもお前に会えてちょっとはしゃいじゃったって言ってたからな」

その言葉で、俺は姉さんとの会話を思い出す。
俺一人、姉さんの存在を知らなかったという、事実。
思わず恨みがましく、ベッドの隣で座っている双兄を睨みつけてしまう。

「………なんだよ?」
「………なんで俺に、姉さんのこと、教えてくれなかったの」
「………」

双兄はその言葉に、口をつぐんだ。
いつもはストレートに、思ったことをズバズバなんでも口にする双兄らしくない、曖昧な態度。
それが、余計に俺には知らせたくなかったというようで、哀しくて、悔しい。
双兄は下ろしたままの長い髪を掻きあげ、ふっとため息をつく。

「その、な」
「………」
「えーと」

何度か言葉を口にしようとして、閉じて、それから頭をぐしゃぐしゃと苛立つように掻きまわした。
そしてなぜかまた脳天チョップを食らわせられる。

「痛い!」
「だって、嫌だろ!俺の中には、姉さんがいるんだよ!とか、誤解されるだろ!」

逆ギレだ。
今回は俺が怒ってもいいくらいだ。
いや、怒っていいはずだ。

「しねーよ!」
「いーや、する!お前はする!なにこの人痛い!って目で見る!」
「ちゃんと説明してくれたら分かる!絶対しない!」
「今説明したからいいじゃねーか」
「よくない!」
「あー、うるせーな」
「四天も知ってるのに!」
「あいつだって仕事がなきゃ知らねーよ」

あ、そうなのか。
四天は仕事で、知ったのか。
わざわざ、知らされた訳じゃないのか。

「………」

でも、やっぱり、俺だけ知らされてなかったのは、悔しい。
俺だって姉さんの存在を知りたかった。
もっと早くに、話してみたかった。
今回の一件がなかったら、いつ知らされていたのか、分からない。
俺だけ、仲間外れだ。
双兄が黙り込んだ俺の髪を、困ったようにつまんだり離したり弄ぶ。

「その、な」
「………」
「あー、悪かった。あいつも、お前には会いたがってんだけどな」

俺がそれでも睨み続けると、双兄は珍しく素直に謝った。
決まり悪そうに、怒ったような顔をする。
でも、怒ってるのはこっちだ。

「………なら、なんで」
「まあ、なんつーか色々あんだよ!」

更に聞きたかったが、双兄は面倒くさそうにこれで終わり!と断言した。
なんだよ、それ。
もっともっとつっこみたいが、双兄はそれを許してくれない。

「とりあえず後だ後!おら、もっかい行くぞ!」
「え、もう!?」
「お前、今日の夜まで起きてられるのか」
「………」

結局さっきは3時間ほどしか寝てなかったらしく、今は日付が変わったばかりの時間だ。
このまま夜明けまで起きているのは可能だとしても、いつ寝てしまうか分からない。
元々徹夜なんかは、苦手だ。

「夜じゃなくても、俺のいないところで寝られても困るしな。次で八階だろ。さすがにそれはまずい。とっとと終わらす」
「………双兄は、大丈夫なの?」
「あー、いけるいける。お兄様を舐めるんじゃありません」
「………俺、また何もできないかもしれないけど」

もう一回連れて行かれても、俺は何が出来るのだろう。
また逃げ纏って、姉さんに迷惑をかけるだけじゃないのだろうか。
それじゃ、行くだけ力の無駄だ。
けれど双兄はぐりぐりと俺の頭を殴るように撫でる。

「大丈夫だ。ちょっとさっきはあいつも乱暴だったからな。今度は、もっと丁寧にサポートするってさ」
「………いつも、こんななの」

あんなスパルタで投げやりな教育、普通の人はどうするんだ。
誰も彼も簡単にあんなこと出来る訳がないだろう。

「いや、さすがに一般人の場合は俺らがどうにかするよ。ただ、お前の場合は、お前がどうにかした方が俺らがやるより遥かに容易で安全なんだよ」
「………そうなの?」
「相手と俺の夢をつないで、俺の力を流し込む感じになる。普段は仕方ないからやるけど、俺の力のリミットが早くなるし、他人が夢を適当にいじるのは、危険性が高い」

確かに夢の中をいじくられるとなると、かなり怖い気もする。
危険性が低いと、言うのは分かる。
でも、俺には、何もできなかった。
最初から双兄達にやってもらった方が絶対うまくいっていた気がする。

「………」

俯いて拳を握りしめると、頭をぽんと軽く叩かれる。
顔を上げると、双兄が悪戯ぽく、けれど優しく笑う。
ああ、その笑顔は姉さんに、そっくりだ。

「大丈夫。今度こそ終わらせられる」
「………うん」
「信じろ。俺とあいつを」

こつんと、額を合わせられる。
至近距離にある双兄の黒い瞳がじっと俺を見ている。
双兄の甘いコロンの匂いがする。
この匂いに包まれると、大丈夫って気になってくる。

近所のガキ大将を、追い払ってくれたのは双兄だった。
池にはまった俺を助けてくれたのは、双兄だった。
大丈夫。
いざって時は、いつだって助けてくれる。

「………分かった」
「よーしよし、お兄様の言うことを聞きなさい!」
「………」

でも、池に付き落としたのは双兄だった気がする。
ガキ大将怒らせたのは、双兄だった気がする。
まあ、でも最後には助けてくれたし。
うん、大丈夫だろう。
大丈夫だよな。

「じゃあ、四天、頼むぞ」

双兄は椅子で座って本を無表情で読んでいた四天に話しかける。
四天は面倒くさそうに本から目をちらりと上げて、頷く。

「はいはい。今日中で終わらせてくれたら、俺も助かる」
「よしよし。やる気満々だな」
「………」

満足そうに都合のいい解釈をする双兄。
四天は少しだけ目を細めたが、特に何かを言うことになった。

「じゃあ、三薙。ほら」
「うん」

また、一緒にベッドに横になる。
長い手足に、抱きこまれる。
甘いコロンの匂いに、包まれる。

「大丈夫だ。お前なら、出来る。もう、これで終わりだ」
「………分かった」

背中を優しく撫でる、大きな手。
大丈夫。

大丈夫、大丈夫。



***




そして、夢の中の姉さんは小さく笑った。

「まあ、さっきは私も乱暴で悪かったわ。ごめんなさい」
「………あ、えっと」

姉さんはそう言って小さく頭を下げた。
まあ、乱暴だったよな。
確かに乱暴だったよな。
スパルタ過ぎだろ。

「一矢兄さんと四天が、順応性高すぎたのよね」

姉さんはうんうんと腕組みをして納得したように頷く。
ということは。

「………あの二人は、すぐに慣れたの?」
「ええ。コツをつかむのが早かったわ」
「………」

ああ、こんなところでも、俺は駄目なんだな。
やっぱり、俺は何も出来ない。
役立たずだ。
自分の世界一つ、どうにも出来やしない。

「ああ、ごめんなさい。三薙が悪い訳じゃないわ。私の悪い癖ね。言葉が過ぎるわ。ごめんね。大丈夫よ。あの二人がおかしいだけだから。順応性高すぎなの」

落ち込んだ俺の頭を、姉さんが撫でてくれる。
でも、俺が役立たずなのは確かだ。

「………あの二人は姉さんを見て驚いたりしなかったの?」
「まあ、兄さんは私の事情も知ってたし、双馬が私の人格を持っていることに気付いた最初の人だから」

そうか。
一兄は双兄が双子だってことは、最初から知ってただろうしな。
それに、忙しい父さんに変わってやっぱり双兄の面倒見てたんだろうから、きっとすぐに気付いたのだろう。
一兄が気付くのは、当然のことだ。
だって、一兄だ。

「………四天は?」
「あの子はほんっとおおおおおに!可愛げがなかったわ!姉よ、って言った時だって、へー、そうですかって言っただけよ!可愛くない!本当に可愛くない!三薙を見習ってほしいわ!」

姉さんは途端テンションをあげてぷりぷりと怒りだす。
よほど四天はいつもの態度を崩さなかったのだろう。
あいつ、本当にどこにいってもかわいくないな。

チリチリと嫉妬で、胸が焦げる。
けれど、姉さんの大げさに怒る様子に、小さく笑みも零れてしまう。
それを見たのか、姉さんも小さく笑う。

「………まあ、二人ともかわいい私の弟達だけどね」

そして、白い腕が首に絡まってぎゅっと抱きしめられた。
温かくて、柔らかくて、ドキドキする。

「あ、あの、あの」
「なあに?」
「は、離して!!」

姉と言っても、さっき知り合ったばかりの人だ。
親しみはとても感じるし、姉さんとどうのこうのって思わないけど、でもこれは心臓に悪い。
一兄や双兄にやられるのと訳が違う。

「どうして?」
「な、だ、とにかく離して!」
「ちぇー」

姉さんは口を尖らせながらも、ようやく離してくれた。
一々スキンシップが激しい人だ。
でも、さすがに年頃の女性に抱きつかれるのは、色々とまずい。

「さ、始めましょうか」
「あ、はい」

姉さんはあっさりと気持ちを切り替える。
この切り替えに、なかなか慣れることができないな。
姉さんは、居住まいを正して、指を一本立てる。
そして、説明を始めた。

「あのね、ここで何かをする時はね。力を使うイメージと同じよ」
「え?」
「力を操るのと同じ感じで、その力を具体化したり、ふるったりするの」

力を使うのと、一緒か。
そういえばこの世界で、俺は力を使おうとしたこともなかった。
あんなのに会ったら、すぐ力を使おうと思うのが当然なのに。
今までそんなこと、思いもしなかった。
なんか、力が使えないって、思いこんでいた気がする。

「ちょっと、やってみて。今あなたの世界と半分つなげてある状態だから出来るわ」
「えっと、何か出したりしたら、いいの?」
「そうそう。なんでもいいのよ。好きなものでも出してみなさい
「好きな、もの」
「そうそう、好きな女の子でもいいわよ。触り放題なんでもし放題!」
「何言ってんだよ!」

馬鹿なことを言ってる姉さんに怒鳴りつけると、カラカラと笑う。
ああ、本当にこの人は双兄の双子の兄妹だ。

「さ、三薙」
「うん」

好きなものか。
それで、力を使うイメージ。
そっと、目を閉じる。
途端に広がる、耳が痛くなるほどの静寂。

海。
青い、青い青い澄み渡った海。
空の青を映して、どこまでも青く光る海。
体に流れる力を意識する。
ああ、なんだ、力は使えるんだ。
なんでこんなことにも、気付かなかったんだろう。
体の中が、熱くなっていく気がする。
奔流となって流れ出し、体の中を駆け廻る。

よし、なんか、出来そうな気がする。
この力を、具現化する。
イメージする。

海。
青い海。
海。
水。
青い、水。

「………どう、だ!」

そのまま力を解放する。
体の前の、そして何もない空間から、水が溢れ出す。
ざあっと音を立てて流れて行く。
乳白色の世界に、なんかペンキでも混ぜたかのような青い水が、小川サイズで流れ出す。
なにこの色、すごく体に悪そう。

「………」
「………」

ていうか、青すぎだろう。
俺の求めている青はこんなじゃない。
ていうかなんでこんなことに。

ああ、失敗か。
がっくりと肩を落とすと、姉さんが小さく首を傾げる。

「………これは、川?」
「………えっと、海?」
「………うん。まあ、努力は認めるわ」

うん、無暗に話を逸らしたり、なかったことにされるより、いい。
でも、へこむ。
こほんと、姉さんが顰めつらしく咳払いをする。

「はい、落ち込まない。てことで、とりあえず、そういう感じ」
「………でも、これで役立つの?」
「今後は三薙にちょくちょくここに来て修行してもらうとして」
「え!?」
「するの」
「は、はい!」

まあ、修行出来るのは、いいことだ。
俺だって、もっとうまく使えるようになりたい。
しかもここで修業したら、なんか、力の扱いもうまくなりそうだ。
現実世界でも役立ちそう。

「今回は、ちょっと時間がないから別の手段使いましょう」
「別の手段?」

そんなものがあるのか。
出来れば修行は今度からするから、今回は始めからそうして欲しかった。

「そうそう。助っ人呼びましょう」
「助っ人?」
「そう。誰よりも頼もしい、信頼できる助っ人」

姉さんはぴんと右の人差し指を立てて、にやりと笑う。
誰よりも頼もしい、助っ人?
なんだそれは。
夢の中に、まだ人が呼べるのか。

「………誰?」
「それは来てからのお楽しみー!」
「………」

いえーい、どんどんぱふぱふと口で効果音を付け足す。
なんでこんな明るいんだろう。
なんか本当に、双兄の、双子、だよな。
そういえばお姉さんなのかな、妹なのかな。
双子って、どっちがどっちなんだろう。

「一回目を瞑って」

姉さんの白い手が、俺の眼を覆う。
視界がふさがれて、自らもそっと目を閉じる。
乳白色の世界が、闇に消える。

「いい。これから来るのは誰よりも頼りになる、とっても強い強い助っ人よ。これでもう大丈夫!安心!20年保証付き!」
「………はあ」
「じゃ、来ます。はい、さーん、にー、いーち、登場ー!わー!!!!」

だからどうしてこんな明るいんだろう。
いや、明るいのはいいことなんだけど。

「目を開けていいわよ」

姉さんの手が、外されたのが分かった。
それ以外は特に何も変わった気配はしなかった。
誰か、来たのか?
恐る恐る、ゆっくりと目を開く。

姉さんの隣には、確かに人影があった。
嫌に、なるほど、見知った顔。

「し、てん」

剣を右手に提げた袴姿の四天は、小さく肩をすくめる。
そしてとても嫌そうに、うんざりといった口調で言った。

「で、俺はここでも働かせられるの?ああ、面倒だな」
「………」
「兄さんは、また何もできなくて俺を頼るんだ。いつもは俺に悪態ついてばかりなのにね?」

しょっぱなから攻撃力全開だ。
ああ、本当にこいつムカつく。
でも、本当のことだから言い返せないのが、何よりムカつく。
結局俺は、こいつに迷惑をかけてばっかりなんだ。
四天を忌み嫌いながら、俺は結局こいつに頼るしかない。
その事実が、何よりもムカつく。
弱い自分が、ムカつく。

「………」
「そうやってまただんまり?」

四天が口を閉ざした俺を嘲笑う。
唇を、噛みしめて悔しさをこらえる。
言われても、仕方のないことだ。
受け止めろ。
俺に、何かいう資格は、ない。

「はいはいはいはい!そこまで!とりあえず行くわよ!喧嘩はその後!」

ぱんぱんと姉さんが音を立てて手を叩いて、やりとりを止める。
四天は姉さんをちらりと見て、再度肩をすくめた。

「ま、いいけどね。さあ、面倒なことはさっさと片付けよう。俺も暇じゃない」
「そうそう。さあ、とっととやっちゃおー!」

四天の嫌みを聞き流し、姉さんは握りこぶしを突き上げて気合いを入れる。
そうだ、とりあえず終わらせよう。
全てはそれからだ。

この夢を、終わらせよう。



***




重厚な木の扉を開くと、そこは真っ赤な世界だった。
赤い赤い、全てが燃えているような風景。
空には遮るものがなく、大きな夕日が、俺達すら赤く色づけている。

「ここが、そう?」

四天がつまらなそうにぐるりと辺りを見渡す。
もう、天井はない。
階数のプレートもない。
ただ、ずっと広がるオレンジに染まった白い床と、それを取り囲む柵が広がっている。
そして、夕日に照らされたそれらが作る、影が床に伸びている。

「あら、屋上ね」
「………」

姉さんが辺りをぐるりと見渡す。
辺りには、何もない。
何もないのに、気味が悪い。

「ここが、終着点なの?」」

天も同じように屋上をぐるりと見渡す
俺達以外、なんの気配もしない、世界。

「……………だれも、いない」

けれど、俺の言葉はすぐに打ち消された。

「いるよ」
「え?」

指さされた場所へと、視線を移す。
けれどそこには、ただ柵が連なっているばかりだ。

「どこ?」
「なんで、あそこの影だけでかいの?」
「………っ」

影の重なりで大きくなっているのかと思っていたが、確かにそこの影は不自然だった。
そこの四方だけ、嫌に手すりの影が太く、奇妙な形をしていた。
まるで、人の、影のように。

「じゃ、行ってくる」
「え、天!?」
「足手まといだからそこにいて」

冷たく言い置いて、天は走りながら剣を鞘から抜く。
夕日の光を浴びて光り輝く、鈍色の刃。

影が、のそりと、意志をもったように蠢く。
天を飲み込もうと言うように、みるみるうちに、広がり大きくなっていく。

「天!」

袴姿の天は、裾など気にもせずに素早くそこに行きつき、剣を振りかぶる。
影が盛り上がり、天を飲み込もうとした瞬間。

ガ、キイイイイイイイイインンンンンンンンンン!

黒板を引っ掻くような、硝子を何枚も叩き割るような、工事現場のような。
不可解で耳障りな音が、空間に広がる。
赤い色が膨張して破裂するように、溢れだす。
赤に、飲まれる。

「………っ」

咄嗟に耳をふさぎ、目をきつく瞑る。

キィ、ン。

断末魔のような響きを残し、音が、止む。
静まり返る。
何も、ない。

「………て、ん」

目を開く。
するとそこは薄いブルーをした空間だった。
ブルーハワイに練乳をかけたような、色。
それ以外は、何もない。
赤い世界は、どこにも、ない。

「あ、れ、ここは」

辺りを慌てて見回して確かめると、姉さんがすぐ隣にいた。
なにやら困ったように、首を傾げいる。
カレーを作ろうとしたのに、にんじんがなかった、みたいな顔。

「…………」
「姉さん?」

どうしたのかと呼びかけると、姉さんは俺をちらりと見て肩をすくめた。

「終わったみたいね」
「ええ!?こんなあっさり!?」

あんな怖かったのに。
あんなに苦労したのに。
たった5分もかからず終了してしまった。

けれど姉さんは辺りを確かめるように見回して、それを肯定する。
姉さん自体も、どうしたらいいかわからないというように。

「うん、もう三薙の世界、何もないみたい」
「え、嘘!?」
「今双馬が探ってるけど、多分ね。ちょっと待って」
「………うん」

袴姿の天が、右手に抜き身の剣をぶらさげたまま、すたすたとこちらに返ってくる。
そして冷笑を浮かべる。

「こんなのに手間取ってたの?相変わらず鈍くさいね」
「お前な!」
「本当のこと言われて怒るの?」
「………う、るさいっ」

お前には分からない。
お前になんて、力のない俺の気持ちは分からない。
何もできない、もどかしさが、分かるはずがない。

「はいはい。そこまでそこまで」

そこでまたぱんぱんと手を叩いて、姉さんが俺たちを止める。
そして四天の額を、白い指でつん、とつつく。

「じゃあ、お役目終了。ありがとね」
「四天!?」

すると、みるみるうちに、四天の姿がほどけて、消えた。
まるで、空気に溶けるように。

「天!?」

呼んでも返事はない。
さっきまで天がいた空間には、何もない。

「姉さん、天は!?」

どういうことなのかと姉さんに問う。
しかし姉さんは慌てた様子もなく、感心したように言った。

「三薙、四天を信頼してるのねえ」
「はあ!?」

いきなり意味の分からないことを言い出した姉さんに、思わず失礼な態度を取ってしまう。
ていうか、天は一体どこに。
そして姉さんは何を言っているのか。

「あのね、今の四天じゃないの」
「は?」

姉さんは俺に向き合って、そんなことを言った。
なんだ、大丈夫か、姉さん。
あれが、天じゃなかったら、一体誰なんだ。

「ほらほら、そんな顔しない。私は正気です」

どうやら顔に出ていたらしい。
慌てて顔に手をあてて、顔を引き締める。
姉さんはにっこりと笑って先を続ける。

「あなたはどうも力の使うの慣れないみたいだから、私の方であなたの力から取り出したの。最初に力使ってもらったでしょ?あそこから引っ張り出す感じで」
「え」
「それで暗示をかけたの。あなたが強くて頼もしいって思ったイメージを出せるように。だからさっきのは、四天じゃなくて、三薙の力なの」
「………えっと」
「本当ならあんな風に、パパパっと片付けられたのよ」

えっと、それはつまり、さっきのは、本物の四天じゃない。
俺の、力の具現化したもの。

「………じゃあ、さっきの天は………」
「三薙にとって、強くて信頼できる人って言われて思い浮かべたのが、四天だったのね」
「はあ!?」
「ちなみにさっきの四天は言動全て、三薙のイメージだから。三薙のイメージの四天ってムカつくわねえ」

えっと。
いや。
違う。

「う」
「う?」
「嘘だ!!!」

俺は耐えきれなくて、叫んでしまった。





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