「三薙さん、どうしました?」 「あ、いえ」 近づいてきた志藤さんが俺の顔を見て、心配そうに眉を潜める。 ギリギリ触れない位置で、俺の頬に手を添える。 産毛が少しだけちりちりして、くすぐったい。 「顔色が悪いです。大丈夫ですか?」 その言葉に、後ろにいた和臣さんが慌てた様子で身を乗り出す。 「どうかされましたか?和彦が何か?」 「い、いえ、なんでもないんです。寝不足だと思います」 「本当ですか?」 「ええ」 本当に何もしていない和彦君のせいにされたはたまらない。 俺は急いで首を横にふった。 聞くべきか聞かないべきか。 きっと、聞かないのが正しいだろう。 「あ、そういえば、お風呂、貸していただいてもいいですか?」 自分の意識を紛らわすためにも、話を変える。 すると和臣さんも表情を和らげて大きく頷いてくれた。 「ああ、勿論です。すぐに用意いたしますね」 「あ、いえ、シャワーがあるならそれでも」 「いえいえ、広くて古いだけの家ですが、風呂は自慢できるんですよ。ヒノキ造りで広くてね。せっかくですから入っていってください。大したもてなしはできませんので、これぐらい」 「あ、はあ」 確かに風呂は結構好きだが、別にそこまでしてもらわなくてもいいんだけど。 でもせっかくの好意なら受けておいた方がいいかもしれない。 陽が落ちるまでには、まだ時間がある。 「じゃあ、お言葉に甘えようかな。そんなに広いんですか?」 「ええ、ゆうに五人ぐらい入れますよ」 「へえ、すごい」 宮守の家の風呂もでかいがさすがに五人は無理かもしれない。 三人ぐらいは入れるキャパシティはあるけれど。 でもそんな広いなら一人で入るのもなんだか寂しいかもしれない。 「あ、そうだ。じゃあ、一緒に入りませんか、志藤さん」 「は……えぇ!?」 志藤さんが一歩後ずさって、変な声を上げる。 そんなに驚かなくてもいいのに。 五人入れるなら、俺も志藤さんもそんなに肉付きがいい方ではないので余裕だろう。 一緒に入るのも楽しいかもしれない。 「せっかくですし」 「ああ、それはいいですね。洗い場も広いから問題ないですよ」 「え、いや、あの、え」 和臣さんも賛同してくれて、にこにこと嬉しそうに何度も頷く。 ヒノキのお風呂か。 入ったことがないので楽しみかもしれない。 いい匂いがするって聞いたことがある。 「じゃあ、用意してきますね」 「すいません、お願いいたします」 話がまとまると和臣さんは張り切って足早に母屋の方に姿を消す。 本当にいい人だ。 残されたのは俺と志藤さん。 急に静まり返ったどんよりとした曇り空の下、二人佇む。 「………あの、志藤さん」 「は、はい!」 声をかけると、志藤さんは文字通り飛び上がった。 その裏返った声に、驚いて俺も飛び上がる。 「え、だ、大丈夫ですか?」 「え、ええ」 そんなに驚かせただろうか。 申し訳なく思いながら、俺は本題を切りだす。 「えっと、ちょっと聞きたいことがあるんですが」 「は、はい」 いまだに落ち着かない様子で視線を彷徨わせる志藤さん。 「初日に志藤さんが倒れた時」 「………はい」 けれどその話を出すと、顔を引き締めじっと俺の顔を見つめた。 俺の話がただの世間話ではないと思ったのだろう。 「その時って、結界が破れるのが先でしたか?志藤さんが倒れた時、結界はもうなかったですか?」 俺の問いに、志藤さんが目を伏せしばらく黙りこむ。 それからゆっくりと首を横に振った。 「いえ」 そして顔を上げて、俺の目をまっすぐに覗き込む。 「結界は、ありました。私が意識を失う前、確かに結界はありました。その後結界が破られ、見回りに来た熊沢さんに発見されたんだと思います」 ああ、やっぱりそうなのか。 でもちょっと考えればそうだ。 先に結界が破られていたのなら、志藤さんだってもっと抵抗していただろう。 抵抗する暇もなく、志藤さんは倒れていたのだ。 そのことに志藤さんも気付いたのだろう、目の中に僅かな動揺を宿す。 「でも、あれ。それなら、なぜ、結界は、破られて、私は倒れたんでしょうか………」 「………」 「それにすぐ熊沢さんが来てくれたのにしても、私の被害が、少なすぎる」 「………」 「そん、な」 志藤さんが顔を顰めて、ぎゅっと唇を噛みしめる。 何かの可能性に思い至ったように。 「………三薙さん」 低い声で呼ばれて俺も、苦い気持ちに唇を噛む。 しばらく考えてから、けれど首を横に振った。 「………明日。明日になれば終わりです」 そうだ、明日になれば終わりだ。 終わりなんだ。 余計なことをする必要はない。 余計なことを知る必要はない。 「今日さえ乗り切れば、終わりなんです。そうしたら俺達は帰れる」 「………」 いまだに眉を潜めて納得いかない顔をしている志藤さんの腕を掴む。 志藤さんの気持ちはよく分かる。 俺だって知りたい。 なぜ結界が破られたのか、なにが目的なのか、手鞠唄の意味は、それにもっと色々なことを。 「………無事に、帰りましょう、志藤さん。もう、これ以上きっと何も起らない」 「………はい」 そのいくつかの答えは、きっと双兄と熊沢さんは知っているのだ。 でも俺に言わないってことは、言う必要がないと判断しているのだろう。 それなら、俺は今、知る必要はない。 それに天と違って、双兄は最後には全部教えてくれると言っていた。 それなら、それでいい。 今は、必要ない。 「うん、今日の夜も、頑張りましょう」 「はい」 見上げて笑いかけると、志藤さんもぎこちなく笑って頷いてくれた。 本当になんか、親近感を覚える人だ。 失礼だけれど、弱さも無知さも無謀さも、近いものを感じる。 「それじゃ、風呂入りましょうか」 「え」 とりあえずは、俺は俺の役割をこなすだけ。 あの離れを守り通せばいいのだ。 それだけだ。 俺に出来ることは少ないのだから。 「俺、兄弟以外と風呂って入ったことないんです」 「え、と」 「なんだか、こんな時ですけど、修学旅行みたいですね」 本当の修学旅行がどんなだかは知らないけれど、こんな感じなのだろうか。 昔、一兄が銭湯に連れて行ってくれたことならあった。 大きなお風呂と沢山の人がいてとても驚いたのを覚えている。 それもほんの少しだけだ。 こんな風に誰かと入る風呂っていうのはなんだかワクワクしてくる。 志藤さんは友人という訳ではないのだけれど。 「あ、着替え持って来なきゃ」 離れに戻ろうと踵を返すと、腕を掴まれた。 つんのめって思わず転びそうになる体を咄嗟に踏ん張って堪える。 「志藤さん?」 「あ、あの!」 「は、はい!」 志藤さんはなんだか緊張した面持ちで俺を見ていた。 いや、なんか視線は泳いでいるな。 「すいません、やっぱり宗家の人と一緒に入浴というのは恐れ多いので」 「え」 「申し訳ありません」 そしてがばっと頭を下げる。 そんな勢いよく頭をふったら眼鏡が取れてしまいそうだ。 案の定顔を上げながら、眼鏡を直している。 「そういうことなので………」 「えっと、でも、ここには父さんも宮城さんもいないし、そんなの誰も気にしないですよ」 双兄や熊沢さんが怒ると思えないし、風呂ぐらいいいんじゃないだろうか。 けれど俺の言葉に志藤さんは思いっきり首を横にぶんぶんとふった。 「いえ、すいません!失礼します!」 そしてまるで逃げ出すように、止める暇もなく素早く走り出してしまう。 ていうか母屋でも離れでもない方向の、どこに行くんだ。 ぽつんと残されたのは俺一人。 「………駄目か」 誰かとお風呂に入るって、やってみたかったな。 ちょっとだけ寂しい。 今度藤吉なんかを誘ってみよう。 「今日で、終わりですよね」 日没すぐに早めの夕飯を終え、本格的な夜が来る前に離れに戻る。 俺達を玄関先まで見送った里さんが不安に顔を曇らせながら聞いてくる。 双兄は気負いなく自信たっぷりに笑って頷く。 「ええ、本日で全て終わります。この度はわたくしどもの力不足ゆえ、ご迷惑をおかけし、申し訳ございません」 「いえ突然のことに迅速に対処していただき、心からありがたく思っております。宮守家には本当に感謝の念が絶えません」 「ありがたいお言葉です。美女からの期待には応えるように教育は受けております。どうぞお任せください」 「まあ」 双兄の言葉に、里さんは頬を手で覆って朗らかに笑う。 そんな様子は俺の母さんよりもずっと年上の人だけれどとても可愛らしい。 「本当に双馬さんになってから迅速で託宣も正確、名高い宮守宗家の噂は誇張どころか過小評価ですわね」 「そんな風に麗しの方に褒められると、やる気がみなぎりますね。度会家の刀自は人を乗せるのがお上手です」 見ているこっちが痒くなりそうだ。 一兄も大概だが、双兄もひどい。 俺の兄弟こんなんばっかりか。 「………よくやるよな」 「双馬さんは女性の扱いがお上手ですねえ」 隣にいた熊沢さんが俺の吐き捨てた言葉を拾い上げて感心したように言っている。 ちらりと見上げると、いつものように飄々と笑っていた。 「………これも、熊沢さんの教育だったり?」 「いえいえ、どっちかというとこれは一矢さんの影響の方が大きいんじゃないですか?」 「自分の影響は否定はしないんですね」 「あはは」 大なり小なり影響はある訳だな。 どうやったらあんな風に砂を吐きそうな言葉を言えるようになるんだ。 俺には無理だ。 そんなことを思っていると、話を終えた双兄がやってきて肩を押される。 「んじゃ行くぞ、三薙」 「はい。失礼します」 「はい、よろしくお願いいたします」 度会さんと里さんが、二人頭を下げる。 俺達も習って頭を下げた。 そして母屋を出てしばらく歩いてから、隣の長身の兄を見上げる。 双兄の頭越しに見る空は雲が覆っていて、星は一つも見えない。 「ねえ、双兄」 「ん、なんだ?」 「双兄の前にも、ここに来てた人がいるの?」 「ああ、俺がこの任につくまでは、別の夢問いが出来る奴が来ていた」 「………そっか」 宮守の家は力を求めて、様々な能力を持つ人間の血を取り入れている。 直系は父さんや一兄や天のようなスタンダードなものが多いが、そのせいで能力は大分多様化している。 双兄のような力を持つ人間が一統にいるっていうのも聞いたことがある。 その中でも双兄の力が一番優れているらしいのだが。 でもそうか。 以前に来ていた人が、いたのか。 「どうした?」 「ううん」 軽く首を振って、もう一度兄を見上げる。 双兄は静かな目で俺を見ていた。 「終わったら、全部教えてくれるんだろ?」 「ああ」 俺の問いかけに応えて、大きな骨ばった手で俺の頭をくしゃくしゃと掻きまわす。 一兄の頼もしい手とはまた違う、温かな感触。 「全部教えるよ」 それなら、いいんだ。 何も知らされず蚊帳の外は嫌だけれど、教えてくれるならいい。 「それじゃお二人とも気をつけて。志藤君、しっかりね」 離れまで送ってきてくれた熊沢さんがひらひらと手を振る。 今日も熊沢さんは一人母屋に残ることになる。 「はい、微力を尽くします」 「微力じゃ困るんだけどね」 からかうような言葉に、志藤さんは肩を落として俯く。 やっぱりなんだか厳しいなあ。 「三薙さん、頼みます」 「はい。俺も微力ですけどね。二人で頑張ります」 胸を張って請け負えるような実力は残念ながらない。 でもきっと、二人なら大丈夫だ。 熊沢さんが苦笑して肩をすくめる。 「それじゃ双馬さん、しっかり働いてください」 「はいはい」 双兄は面倒そうに頭を掻きまわしながら頷く。 それを見届けて、一人母屋に向かう熊沢さん。 「あの」 「はい?」 双兄と志藤さんが離れに入ったのを見計らって、熊沢さんに駆け寄る。 その腕を掴むと、熊沢さんが不思議そうな顔で振り返った。 「その、熊沢さんも、気をつけてください」 「………」 熊沢さんは俺の目を、じっと覗き込んでいた。 しばらくしてから、ふっとけぶるように笑う。 「ありがとうございます」 そして力強く頷く。 「三薙さんは、離れの方にだけ、意識を集中させてください」 「分かりました」 「後、一日です」 俺も応えて、大きく頷く。 そう、後一日。 俺は、離れに、集中していればいいのだ。 |